【写真説明】錐麓古道から見下ろしたタロコ渓谷核心部を走る中部横貫公路、標高差約500メートル。中横建設時、最難関部だった部分。
<中部横貫公路と合歓山越嶺古道>−6
中横建設にも若干言及しておく。正式には「中部東西横貫公路」、或いはタロコ渓谷に入る場合、まず出迎えられる朱塗りの華表(門柱)に大書きされているように「東西横貫公路」と呼ばれた中横全線の建設は、冒頭で紹介した三本の横貫公路の中では最も早く、1956年7月に開始、中華民国国軍退役軍人(註6)を主力に1万余人を投入、200余人の殉職者を出しながら、1960年10月完工という一大国家事業だった。中横建設に於ける最大の難関部分は、タロコ峡谷入口から天祥までの約20キロ区間だったそうだが、当時の基本工法は爆薬と鑿(のみ)・斧(おの)に頼る文字通りの人海戦術だっただけに、現在は人力で削り出され岩盤が露出した道路沿線の人工景観とタツキリ渓の大理石岩盤に対する自然工法のコントラストが同公園内の最高の魅力の一つとなっている。
以下、記事中で記述する中横とは、特に断りのない限り、合歓山越嶺古道に相当する本線並びに霧社支線を指すことにする。(2011年4月29日メルマガ「台湾の声」掲載分を一部改編。続く。。。)
(註6)「国軍退役軍人」:台湾では「栄民」と呼ばれる。中横建設の意図は、1)国防、2)経済建設、3)栄民の就業対策の三点にあったと言われる。アメリカからの経済支援を受け膨大な予算を使い中央山脈越えの道路を建設することが本当に国防上意味のあることだったのか?中横から外部、つまり東西を海岸部へ抜ける道路は実質一本しかないので、途中を一箇所遮断されれば全体の交通も同時にストップしてしまうという現実の中、本当に国防上、且つ経済上意義があったのか?中横建設を主導したのは、国防部、一般人に広く就業機会を与える公共事業だったはずなのに、退役軍人主力で工事を敢行したところに中横建設の実際の意図が伺える。尚、タロコ渓谷内の観光スポットの一つ長春祠は中横建設時の殉職者を祀っている。
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残念!そんな体験を私もしてみたいものです。お探しの記事はこのブログの中にはありません。(了)