2020年02月22日

能高越嶺古道−30:古道東西分岐点

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【写真説明】筆者が能高越嶺古道分岐点として長らく勘違いしていた、南華山−能高山稜線と天池山荘から続く古道西段との出会い附近のパノラマ写真。同稜線南側の俯瞰で同写真中央に蒋介石筆に成る「光被八表」記念碑が写る。同写真中央が卡賀爾山、能高山頂上は僅かに右側に覗く、左側山塊は能高山南峰。この出会い、三叉路は能高[土|亜]口と呼ばれ、標高は約2,800bあるが、古道東西分岐点では無い。ここに掲載した三枚の写真は、古道東西分岐点の2019年10月時の状況。古道東西段と能高山登山道との三叉路に為る。同地での写真はこれら三枚しか撮影していない。能高山登山の復路時に再度撮影すれば良いと簡単に考えていたが、実際は、陽は完全に没し真っ暗闇、この分岐点迄戻って来たことすら判らなかった。
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2020年02月15日

特富野古道−10:達那社−4

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【写真説明】達邦国民小学校正門横には、日本時代、「タッパン駐在所」と呼ばれていたはずの警察官舎が復元されている(左・中央写真)。「日警官舎」(Japanese Polis Official House)と題された案内板には次のような簡便な説明が施されている(筆者拙訳):「日本統治時代、ツォウ族をオンサイトで管理し易く、抗日事件発生を防止する為に、この地に官舎を建造し日本人警官の宿舎を供し、統治権力を強化した。」。右写真は、日本時代のタッパン蕃童教育所(1904年、明治37年創立)の面影を残す達那国小の正門階段。既に創立百年を優に越した由緒正しき小学校である。(終り)
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2020年02月08日

特富野古道−9達那社−3

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【写真説明】ツォウ族の戦祭「マヤスビ」は極めて著名である。本投稿本文中で詳細を解説しておいた。毎年ツォウ族二大大社であるトフヤ社と達邦社で各々挙行される。筆者が尋ねた折は丁度達邦社の戦祭の前日、2月14日だった。トフヤ社の戦祭も同時期に挙行(一週間違いとか)されるはずだが、当時トフヤ社の戦祭に関わる何物にも遭遇しなかったはずだ。例に依り筆者の記憶が跳んでいるのかもしれない。左写真は達邦社のクバ近くの住居壁に貼られた戦祭案内幕、毎年更新されるのかどうか?は判らないが、ビビッドな色使いが戦祭の性格を表している。中央写真はクバ正面前に設けられた戦祭観覧席である。右写真は達邦社のクバの軒に掛けられた伝統道具なのだが、「敵部族の頭骨を保管する籠」では無さそうだ。
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2020年02月01日

特富野古道−8:達那社−2

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【写真説明】当時、トフヤ社と達邦社を同時に尋ね、その差が歴然としていたのは、以下の三点である:一つは達那社のクバの規模がトフヤ社のそれと比べ格段に大きいと感じた事、二つ目は偶々達那社の「戦祭」の前日であった事、三つ目は達邦社には日本時代の駐在所が復元されていた事である。それら各々を三回の投稿に分けて紹介したいと思う。まずは、達那社のクバ、三景。「特富野古道−6」に掲載したクバの構築案内だけでは、左・中央写真の撮影方角が判らない。只言えることは、左写真がクバ正面に向かい左側、中央写真が右側であることだ。何故この二枚の写真で正面、並びにその左右が判るかと云うと、右写真である。クバ構築案内中の「金草蘭」の達那社式鉢植えはクバ正面の左右に置かれるのだ。実はこの左写真を撮影した記憶が無い。実際はカメラを縦にして、左右の鉢植えを同時に写し込んでいることから、その前にトフヤ社のクバの案内板を読んでいたか?(通常筆者の性格からそれは有り得ないのだが)。いづれにしても不思議な一枚である。(続く)
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2020年01月25日

特富野古道−7:達那社−1

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【写真説明】現在のトフヤ社と達邦社とは曽文渓の支流であるイスチアナ(伊斯基安娜)渓で区切られるように位置している。北東側にトフヤ社、南西に達邦社と云う配置になる。この間は無論自動車道もあるが、特富野歩道の一部として達邦吊橋がイスチアナ渓越しに渡してある。同地に日本時代鉄線橋が渡されていたかどうか?は判らないが、筆者が当時撮影した写真の中に、鉄線橋橋柱らしきものがある。但し、全く記憶から抜け落ちているので今回投稿で掲載することは止めにした。左写真は、達那吊橋越しにトフヤ社側から達邦社方面の眺望。中央写真は、達邦社入口に立つ「鄒族生活寫照」と題されたツォウ族塑像。右写真は同じく達那社入口に立つ標示板。(続く)
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2020年01月18日

特富野古道−6:トフヤ社−2

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【写真説明】上掲三枚の写真はトフヤ社の「男子会所」(男子集会所)、即ち「クバ」(庫巴)である。ツォウ族の伝統を象徴する場であり建築物なのだが、当時筆者自身そのような知識を仕込んでいたかどうか?下掲写真は、この場が厳格な女人禁制であることを警告したもの。以下の文章(拙訳)を認めた「敬告」が傍に貼られていた:「本男子聚会所はツォウ族の神聖な場であり、内部には多くの禁忌物があり、不測の事態発生を避ける為、トフヤ社の男子以外は立入り禁止区域である。」女人禁制とストレートに書かないのが現代のマナーであるらしい。不測の事態とは神の祟りを意味している。
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2020年01月11日

特富野古道−5:トフヤ社−1

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【写真説明】左写真は阿里山郷達那村特富野社入口に立つ標示板。中央写真は特富野社全景、同写真後方の山々は阿里山方面だと思う。右写真は、同社内を巡る「特富野歩道」の案内板。前回投稿で記したように2013年2月に尋ねた際の目的は、特富野古道の西側起点を探し当てるのが目的、この特富野歩道こそが特富野古道の前哨路のはずだと隈なく歩いたのだが手掛り無し。特富野歩道は文字通り、生態散策歩道でしか無かった。(続く)
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2020年01月04日

特富野古道−4

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【写真説明】今回掲載の三枚はすべて、古道西側起点、特富野側古道出入口附近。2009年7月のこの古道の初回探訪時に、古道全長を歩き通している。詰り、東西起点を往復しているのである。旧水上支線軌道と別れてからこの西側起点までの間、撮影した枚数はゼロ、僅かにここに掲載した古道起点の三枚が残っているのみ。余程時間に追われていたのだ。写真のデータを見ると復路に4時間近くを掛けている。十年前、五十の坂を超えたばかりの頃は、まだまだ相当な体力があった証左だ。今はそんな無謀な真似は出来ない。しかも西側起点まで確かに至ったと云う記憶が完全に抜け落ちている。この為、約四年後の2013年2月に、初めて特富野部落を尋ねたのだが、その時の第一の目的は、この特富野古道西側起点を確認することだった。(続く)
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2019年12月28日

特富野古道−3

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【写真説明】左・中央写真は古道上沿線に残る伐採した後の巨大なベニヒの切り株。古道上に設えられた案内板(本稿で二基を紹介)の説明を読むと、日本人が阿里山のヒノキを根こそぎ切り倒してしまったと糾弾されるような気分になるのだが、実際は戦後も阿里山の林業は継続されたのだ。右写真は、古道が旧水山線軌道、即ち平坦部と別れ、特富野方面への下りに掛かる部分である。
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2019年12月21日

特富野古道−2

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【写真説明】特富野古道の東側起点から平坦部約4`弱の部分の主役は、阿里山森林鉄道旧水山支線の軌道である。この軌道がどう云う状況で残存し古道に変じているか?が判り易い三枚を掲載した。左写真は柳杉の植林を縫う旧軌道。中央写真は架橋部の軌道を外し板を渡し歩道に仕立てたもの。右写真は架橋部を側面から撮影した。
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2019年12月14日

特富野古道−1

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【写真説明】左写真は特富野古道東側起点となる自忠、日本時代の児玉の全景、海抜2,280b、嘉義県阿里山郷と南投県信義郷の県境になる。同写真中央の道路は省道18号線、通称阿里山公路。中央写真は、古道入口に立つ標示板。右写真は古道最初の里程標。
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2019年12月07日

李棟山隘勇線−10:李棟隘勇監督所(李棟山古堡)−2

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【写真説明】2006年10月に撮影した李棟山古堡の写真を掲載する。規模の広大さと堅牢さを数字でも表記しておく―四辺形の堡塁の長辺28b、短辺22b、コンクリート壁の最大厚み60a、銃眼(銃口)数31箇所。2003年、古蹟登録名「Tapung古堡」(タイヤル語、Tapongの表記もあり、発音は「タポン」に近いか?蕨類の意)にて新竹県県定古蹟指定、標高1,914bは台湾最高所の古蹟と謂われる。「霞喀羅古道−9:李棟山」では堡塁の規模を五十b四方と記しているが当時は筆者の推測。最高所の古蹟と雖も、古蹟の定義不明、例えば古道そのものが国定古蹟指定の八通関古道の最高所は海抜3,000bを超えている。上掲三枚は堡塁のスケールを感得出来そうな写真を選んだ。既に「霞喀羅古道」でも写真を掲載した大手門は北西向きである。左写真は堡塁の高さが判るように当時の遊楽客を入れ込んだ。中央写真は南東側から撮影、出来るだけ堡塁全体をカバーした積りだ。右写真は南側から撮影。下掲写真の左二枚は銃眼を撮影、左写真が内部、中央写真は外部、右写真は李棟山事件時の弾痕。(終り)
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2019年11月30日

李棟山隘勇線−9:李棟隘勇監督所(李棟山古堡)

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【写真説明】渡邉氏の墓碑から李棟山頂上迄の距離は15分程度であるが、本古道中勾配が最もきつかったような記憶がある。それでも拍子抜けするようにあっさり2006年10月以来約十年振り、第五代台湾総督佐久間左馬太の「慎守其一」石額が嘗て掛かっていた、台湾では李棟山古堡と通称される場所に出た。台湾では「監督所」又は「監管所」の両方の表記があるが、台湾総督府の呼称は、恐らく前者だと思われる。十年前この地に足を運んだ際、この日本人に依る台湾理蕃事業上最大の遺構は筆者にとって非常な威圧感があった。威圧感とはおどろおどろしい感覚だ。当時の戦闘で死亡した双方の気が充満していると云う感覚か?聖地である。当時は10月、台湾でも秋で季節感が影響していたかもしれない。台湾の山深く忽然と起立する大要塞の景観を次回の投稿で掲載する予定だが、二回目の2016年4月の同地へ到達した時の感覚は、余りにも明るくあっけらかんとしており、大要塞が何かしら薄っぺらな感じさえした。今もってその感覚の差異の由来が判らず。(続く)
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2019年11月23日

李棟山隘勇線−8:故桃園廰巡査渡邉要之墓

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【写真説明】この墓碑は往路では行き当たらず、復路の際探し当てた。現代の古道から外れた場所に佇んでいたはずだが、どうやって辿り着けたのか?記憶に無い。場所は李棟山頂上西側下、大混山古道と八五山古道の分岐点辺りだ(左写真)。李棟山事件に因む日本人の墓碑が残存しているのは聞いていたのだが、筆者は長らく勝手に集合墓地を想像していた。佐久間左馬太の五箇年理蕃事業計画の著名な推進例である「タロコ戦役」時の日本軍集合墓地が現存しているからだ―尤も一般人が現地を訪ねるのは山が深く無理なのだが。李棟山の場合、実際現存しているのはこの一基だけではなかろうか?とも考えたりもする。墓碑中央部分「故桃園廰巡査渡邉要之墓」の刻字は百年を経ても明瞭だ(右写真)。左側は出身地の刻字「宮城県志田郡鹿島台村」と辛うじて読める。右側には「大正元(年)(  )戦死」と読めるが(  )の部分は「年」を含め墓碑が欠けている。恐らく死亡月日と予想される。これで李棟山事件の第二次攻防戦、即ち太田山事件時に落命されたのが判る。台湾総督府文書に依ると、同氏の場合、大正4年(1915年)4月13日付けで、他199名と共に靖国神社に合祀されている。それでは、何故渡邉氏の墓碑のみが現地に存在しているのだろうか?(続く)
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2019年11月16日

李棟山隘勇線−7:太田山分遣所

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【写真説明】李棟山事件に於ける第二次武力衝突の現場だそうだが、目立つ石塁も無く、只だだっ広い隘勇線跡が交叉している場所で、太田山と云う山をイメージ出来るものに出遭えず。太田山は「李棟山事件」に於ける台湾総督府とタイヤル族の第二次武力衝突(1912年、大正元年)の際の攻防戦戦場で、原住民側が夏季の台風を利用し日本側の隘勇線を分断、最終的には日本軍・官警の死者205名、負傷者288名に至った。先に「李棟山隘勇線−1」の中で雑誌『台灣山岳』の記事タイトル「百名のタイヤル族戦士と二千名の日本軍の血戦」を紹介したが、前者の百名は想像にしても、後者は2,180人と云う日本側の記録がある。この第二次攻防戦を特に「太田山事件」と現在の台湾では表記しているが、台湾総督府文書では「事変」の表記ではないかと思う。因みに、「太田」とは、当時、新竹廳樹杞林支廳第二部隊第一分隊警部補、太田角太郎。大正2年(1913年)10月9日発布の以下の台湾総督府発令書中の名簿中に同氏名がある。発令者は海軍大臣男爵斎藤実・陸軍大臣楠瀬幸彦:
「件名: 臺灣生蕃討伐ニ從事シ死歿シタル警察官吏靖國神社ヘ合祀ノ件」。(続く)
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2019年11月09日

李棟山隘勇線−6:八五山分遣所

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【写真説明】李棟山への稜線が高度を上げ始めた斜面を利用して築かれた「疑似」八五山分遣所遺構。李棟山隘勇線上最も完全な石塁であるが、写真に見るようびっしりと柳杉が植樹してあるので、林務局が手を入れたのは明らかだ。左写真は往路に、中央・右写真は復路に撮影した。右写真は石塁上の平地。(続く)
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2019年11月02日

李棟山隘勇線−5:佐藤分遣所

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【写真説明】金子−佐藤分遣所の間に給水分遣所が設置されたことになっている。「給水」の由来は判らない。但し、明確な遺構に出会えず、何しろ金子−佐藤間は歩行僅かに10分程度の距離しか無い。『台灣山岳』ではここも「疑似」の扱いだ。古道片側に沿った崩壊を免れた長い石塁が特徴だ。(続く)
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2019年10月26日

李棟山隘勇線−4:金子分遣所

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【写真説明】ここは『台灣山岳』に依ると「疑似」金子駐在所である。駐在所の記載は誤記かと思う。その後同地に駐在所が設置された可能性もあるが、『臺灣地形圖新解』を閲覧すると、少なくとも大混山−李棟山稜線上が警備道化されたようには見えない。大岡分遣所跡地が高い石塁で筆者に迫って来たのに比べると、広々とした稜線上に低い石塁で設営されている。筆者の記憶が正しければ、古道両側に各々方形の区画が切られていた。(続く)
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2019年10月19日

李棟山隘勇線−3:大岡分遣所

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【写真説明】古道を大混山から李棟山へ向けて辿る場合、最初に出会うのが大岡分遣所遺構である。大混山頂上を乗り越し再び古道に合流(左写真)してから直ぐに出現する。台湾の古道上で過去遭遇した日本時代の遺構にハッとした経験は何度もあるが、大岡分遣所のそれは格別だった。大振りの石塊で高く積み上げられた石塁が完全な状態で起立している様(中央・右写真)には茫然とした。同時に、林務局が入り込み国家歩道として整備されていないのが不思議に思われた。下掲の二枚は復路時に撮影した精緻な階段と鉄製水管。大岡分遣所を通過した後も次々に隘勇施設遺構が出現する。ハイカーはそれらの遺構がどの分遣所跡なのか?想像するしか無いが、大岡分遣所だけは特定されている模様だ。因みに、分遣所は出張所、出先の意味で現在でも使われている。(続く)
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2019年10月12日

李棟山隘勇線−2:大混山

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【写真説明】大混山山頂は古道入口から1時間強で辿り着く。隘勇線自体が同山山頂を抱合していたかどうか?は判らない。古道たる広い路線は頂上を巻くようにしながら北へ延びており、頂上へ至る道が進行方向左側に切ってある(左写真)。頂上は真っ平である(中央写真)。陸地測量部に敬意を表し大混山三等三角点の写真(右写真)を掲載しておく。こちらも百年古蹟である。(続く)
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2019年10月05日

李棟山隘勇線−1

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【写真説明】左写真は大混山古道入口に立つ指導標、2016年5月の踏査、それ程遠い過去の話ではないのだが、この入口にどのようにして辿り着いたのか?明瞭な記憶が無い。新竹県横山郷内湾、尖石を通過した後の順路を当時撮影した写真を手掛かりにしてみても印象に乏しい有様。中央写真は、古道入口から暫く続く竹林。右写真は大混山への稜線上の古道の一風景で幅広な路線である。本ブログの第一投稿記事「六亀特別警備道(扇平古道)−1」の中で、隘勇線を「物理的には山中百五十メートル幅で草木を払い、道路を通し鉄条網を張り巡らし。。。」と説明したが、当時はこの古道を含む稜線が丸裸にされたことが想起される。
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2019年09月28日

『水の古道』隆恩[土/川]−5:「永済義渡碑記」

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【写真説明】左写真は南投県名間郷濁水村福興宮にある「永濟義渡碑記」、中央写真は同県竹山鎮社寮里紫南宮にある同じく「永濟義渡碑記」、どちらも光緒5年(1879年)の銘を持ち、濁水渓北岸(右岸=福興宮)と南岸(左岸=紫南宮)間の義渡設営の顛末を記してある。碑文は殆ど同じであり、双つ乍ら国定古蹟である。前回投稿記事で述べた日本人に依る濁水橋竣工(昭和9年・1934年)を以て永済義渡は約四十年の役目を終える。右写真は、社寮紫南宮本堂前の賑わい。
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2019年09月21日

『水の古道』隆恩[土/川]−4:濁水橋

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【写真説明】左・中央写真は日本時代架橋の「濁水橋」の北岸(右岸)側に、獅頭山を背に起立する橋柱遺構。集集攔河堰沿いに集集橋を介した省道3号丙線脇にあり、今は歴史遺産として公園仕立てになっている。南岸(左岸)側橋柱は撤去されており、「吊橋頭」と云う地名だけが残る。右写真は橋柱上部に刻まれた銘。竣功年月も「濁水橋」と同じ面に刻まれていたが、今は殆ど判読不能な状態迄に破壊されている。下掲写真は、南岸吊橋頭に設けられた展望台から橋柱(同写真中央部に微かに写る)を含む北岸を望んだ。この展望台、集集攔河堰と濁水渓、加えて集集大山を始めとする日月潭を取り巻く山並みの絶好の眺望台だが、今は訪れる人も殆どない。そもそも展望台入口すら判り難くなっている。尚、獅頭山は吊橋遺構附近から700段近くの階段が設営されており頂上迄登れるが、今回筆者は遠慮した。
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2019年09月14日

『水の古道』隆恩[土/川]−3:隆恩圳幹線・南岸沈砂地

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【写真説明】左写真は、濁水渓南岸取水口から隆恩圳幹線に導水された後、その文字通り濁水が先ず通過する沈砂地はだだっ広い退屈な公園になっている。その公園の西端脇に福興宮と云う土地公があり、そこに隆恩圳の南圳と北圳への分岐点がある。中央写真は土地公敷地内から隆恩圳幹線を撮影、右写真は幹線が南圳(同写真右側水路)と北圳(同写真左側水路)へ分岐する様。但し、水門自体が日本時代のものか?は疑問。
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2019年09月07日

『水の古道』八奨渓義渡−7:道将圳−4

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【写真説明】【「道将圳−3」追記】その後機会あり再度嘉義市指定古蹟の芳草橋を探しに出掛けた。グーグル・マップで「芳草橋」を検索しても代わりに芳草公園と全家(ファミリーマート)芳草店が出て来るだけだが、「嘉義市 糯米橋」で検索すると見事に行き当たった。ところで、筆者自身は台湾内にはまだ五万と糯米橋は残存していると勝手に想像していたが、グーグル・マップで検索すると、嘉義市のものも含め全国で僅かに四箇所だけだ。これは驚きの発見、嘉義市がこの現代自動車道の下敷きになった小さな橋を古蹟扱いにするのも納得出来ると云うものだ。前回の調査時は、道将圳取水口から流れ出した所謂幹線に掛かる橋を取水口から二つだけ追い掛けた。暑い一日で徒歩で確認出来るのはそれが精一杯、最初の架橋が福安宮横の道将圳橋であり、二つ目が無名橋であった。糯米橋は、この無名橋より東側ワンブロックだけ離れた場所に別の道爺圳が走っており、そこに架橋されていた(左写真)。幹線は水が滔々と流れているが、こちらは水の流れ自体が無し。幹線に対する支線?糯米橋の部分は北側側面が僅かに確認出来るだけ(中央写真)、南側は完全にコンクリートに埋もれているが、嘉義市東区芳草里の誇りらしく色鮮やかな意匠に取り巻かれている(右写真)。(終り)
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2019年08月31日

『水の古道』八奨渓義渡−6

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【写真説明】八奨渓義渡公園内に小屋掛けしてある「八掌渓義渡記念碑」(左写真)は殊更日本式漢字の「記念碑」を充ててあり、中国式の「紀念碑」では無い。しかもこの碑は元々は別々に建立されたものを合体させたようにも思える。具体的には、石碑本体が道光年間の「八奨渓義渡碑記」であり、基部が日本時代の「八掌渓義渡鐵線橋(重修碑)」である。道光年間のものは、建立の期日がまだ明確に読める。他方日本時代のものは向かって右側に年号、左側に月日が銘記されているが、摩耗が激しく漸く紀元節年号になっているのが判る程度である(中央写真)。この基部は元々「八奨渓義渡碑記」のものであり、後年書き込まれた可能性もある。但し、基部裏側の銘はまだ鮮明である(右写真)。尚、日本時代の鉄線橋竣工は、初代が大正12年(1923年)、修復されたのが昭和15年(1940年)、今に残る記念碑は後者のものである。
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2019年08月24日

『水の古道』八奨渓義渡−5

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【写真説明】嘉義市の古刹彌陀禅寺山門前の駐車場横に設えられた仮称「八奨渓義渡」公園内に起立する事蹟は全部で四基、「八掌渓義渡記念碑」、「義民塔」、「義民神位碑」、「土地公像」、この内、日本時代建立のものは、前者二基である。左写真はその二基も含め、同写真右側に写る義民神位碑を含む三基が写り込んでいる。義民神位碑はレプリカだと思われる。右写真は、彌陀禅寺の駐車場から義渡公園への階段を登り切った場所に建つ渡しの絵が入った洒落た案内板(中・英文)と土地公像。土地公像は新しいがその土台は日本時代の神社の灯篭を拝借して来たように見える。
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2019年08月17日

『水の古道』八奨渓義渡−4

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【写真説明】彌陀映月橋途中から八掌渓右岸を望むと、その橋端より僅かばかり上流側の彌陀禅寺伽藍と共に二柱の直線のコンクリート製構造物が目に飛び込んで来る。刹那に日本時代の鉄線橋の橋柱を想起させるのだが、筆者の『台灣全覧』を見ると丁度同じ位置に二つ、記念碑が明記してある。それでも旧橋柱を利用し記念碑に仕立てた可能性もあるので、とにかく現場、彌陀禅寺迄出掛けてみた。二本の構造物は設計上は平凡そのもので、加えて一切の銘が無い。一体全体対岸の左岸には対になるべき橋柱は起立していない。それでこれら二本はやはり地図にあるように兎に角記念碑であろうと結論付けて彌陀禅寺を後にした。その後ネットを渉猟していたら、やはり、これら二本の構造物は日本時代竣工の鉄線橋の橋柱であることを確認した。その名も「八掌渓義渡鐵線橋」。現地にある鉄線橋に関わる事蹟は「奨」の字が「掌」に代わっている。何故右岸側に二柱あるのかは不明。左写真は八掌渓縁に建つ彌陀禅寺の山門と旧鉄線橋第一橋柱、中央写真は、彌陀禅寺山門脇に小高く設えられた筆者に依る仮称、八奨渓義渡公園から山門、橋柱越しに望む八掌渓と日本時代の鉄線橋に取って代わった忠義橋、右写真は義渡公園脇に起立する鉄線橋第二橋柱。幾ら何でも左岸から移動させて来たとは思えない。(続く)
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2019年08月10日

『水の古道』八奨渓義渡−3:道将圳−3

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【写真説明】道将圳取水口から取り込まれた八掌渓の水はごく普通の水路(左写真:「道将圳幹線」)を通り嘉義市街地に流れ込んで行く。取水口から忠実に水路を辿るのは住宅地の建て込みの関係で無理なので、少し回り道をして、シリーズ『台灣的古圳道』に掲載されている糯米(モチゴメ)橋をグーグルを利用し探した。グーグルが指したのはダイヤグラム上の福安宮(中央写真)横の小橋で、日本時代架橋の橋が下敷きになっているはずなのだが、見当たらず。代わりに発見したのは同橋の名前が「道爺圳橋」(右写真)であること。あれあれ、道将圳が何時の間に道爺圳に代わったのやら?と訝ったが、元々は道将圳は道爺圳と将軍圳の集合名詞なので、筆者が取水口から辿って来たのは幹線とは言え道爺圳だったらしい。いずれにしても、筆者が辿り着いたのは1864年(同治3年)架橋、今は嘉義市指定古蹟の芳草橋(又は草地尾橋、古名は、道爺橋、又は道爺圳橋!)では無いのは確かで、次回の機会に委ねることにした。(続く)
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2019年08月03日

『水の古道』八奨渓義渡−2:道将圳−2

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【写真説明】八掌渓右岸に位置する道将圳取水口を構成する構造物の二態。コンクリート製の奇妙な構造物は曲線を描き、加えて人が十分歩けるよう設計されており、実際今現在は錠の掛かった門がある。回廊に沿い草が生い茂っているのは古さを思わせるが、日本時代の竣工かどうかは判ら無い。何よりもまずこの構造物の機能が想像付かないのだが、筆者には優美なデザインを持つオブジェだ。筆者はこの奇妙な物体に遭遇し幸福を感じる始末。右写真は現代の取水堰。(続く)
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