2021年04月17日

壽山古道−23:田町斎場

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【写真説明】鼓山路は嘗て高雄市街地で最も賑わった、当時の寿町、湊町、新浜町から為る、今に謂う哈瑪星(台湾語読みで「はません」)地区を貫き、壽山東側山裾を北上、その西側(壽山側)に山下町、東側に堀江町、北野町、更に田町に相当する地区を遡る。既に紹介済みの浅野セメントは田町三丁目にあった。ここら辺りまでが当時の市街地と言えそうだ。従ってと謂うべきか、鼓山路の両側には日本時代の家屋が良く残っている。始終バイク、自転車で往復しているのだが、何時も何かしら新しい発見がある。旧浅野セメントの僅かに南側の鼓山路沿い東側に以前から気に掛かっていた、殆ど倒壊寸前の大振りの日本時代の家屋がある。その建築様式は独特のもので何に利用されていたか想像出来ずにいた。鉄板の塀で囲まれ中には入れないようになっているので、その内修復作業でも始まるのかと思っていた。文化部文化資産局のサイトに入っていたら偶々この家屋らしきものが登録されているのを見付けた。「斎場」と記載されている。昭和8年(1933年)竣工の高雄市指定の歴史建築だ。登録は2017年である。修復される前にボロボロの状態を撮影しようと思い立ち先日出掛けた。鉄板の塀に「田町斎場」と明記された紙が貼り付けてあった。鉄塀の隙間から中を覗くと修復に用いる煉瓦が運び込まれているのが確認出来る。斎場とはこの場合、葬儀場である。昭和12年の高雄市都市計画図を見ると「葬儀堂」の記載になっている。台湾では斎場とは言わず、殯儀舘が一般的である。戦後は永らく市場(いちば)として利用されて来たとウィキペディア中文版に解説があり、これはG博士の記憶と一致している。又、同解説の中に、台湾唯一の日本時代の葬儀場の遺構ともある。歴史建築指定から四年で修復工事に取り掛かれるのは速いと思う。前回紹介した「逍遥園」の場合は10年掛かっているのだが、土地・家屋の買収交渉に費やされているのだろうか?因みに、これも先に紹介した打狗水道量水器室遺構、古蹟指定は2004年、保護が加えられないまま15年以上が経過していることになる。(続く)
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2021年04月10日

壽山古道−22:打狗本願寺布教所

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【写真説明】旧本願寺布教所も旧金光教教会所と同じく壽山東側山裾、鼓山路から少しだけ入り込んだ場所に建設されている。場所は紹介済みの打狗水道量水器室遺構のある通りを二百b程北側に辿った地点である(左写真最奥のクリーム色のビル)。本願寺布教所の創建は明治39年(1906年)、往時の布教所施設の遺構は残留していない模様だが、当時の写真に写り込んだ布教所前の民家、或いは布教所施設の一部かもしれない家屋が現存している(中央写真)。古写真に写るその家屋は瓦が葺かれていないが、今に残るそれは瓦葺だ。驚くべきことに、いまだに居住されている(右写真)。筆者が現場を探し当てた時、その古建築を丸ごと取り込み支えるように囲っている追加された住居の前に老婆が椅子に座り若い男性とお喋りの最中だった。そこに割って入り、老婆に古い家屋の由縁を尋ねてみることはしなかった。日本語が話せるとしたら国語(台湾北京語)が話せる確立は低い。白壁のドアの上には小さな十字架が嵌め込まれていた。筆者自身は本願寺に関する知識はゼロである。日本全国の全ての本願寺が東西どちらかに分れていると勝手に想像していた。高雄の旧本願寺布教所はどちらだろうなどと思いながら、ウィキペディアを覗いてみて仰天し、筆者の細やかな疑問など吹っ飛んだ。宗教施設ではないが、昨年遅くに高雄市街地内にある、浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22代門主大谷光瑞の台湾別邸「逍遥園」が一般公開された。高雄市の歴史建築に指定されてから10年が経っている。逍遥園の創建は昭和14年(1939年)。武漢肺炎渦中にあるので日本人観光客には未だ露出度が極めて低い新しいアトラクションだ。(続く)
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2021年04月03日

壽山古道−21:金光教打狗教会所

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【写真説明】三件の遺構の紹介を追加して「壽山」シリーズを閉じる積りでいたが、もう少し追加することにした。名山の誉高い壽山山中、その周辺共に土地公、廟堂、寺院が乱立している感がある。これらの多くの前身が日本時代に起源を持つのだろうと漠然と想像しており、その数の多さから逆に興味が削がれていた。が、実は日本時代まで遡れるものは案外少ないようである。旧高雄神社、今は忠烈祠に成り代わっているが、余りにも人口に膾炙しているのでここでの紹介は控える。又、その前身になる金刀比羅(金毘羅)神社跡も殆どの高雄人は知見があるとは思われないが、完全に排斥され今は何も残っていないのでこれも殊更取り上げない。高雄神社、金刀比羅神社以外の日本時代の遺構が残る宗教施設は実は二箇所しかない模様だ。その一つが今回の金光教打狗教会所遺構である。高雄市動物園への登り口は鼓山路沿いに南北二箇所あるが、当該地は南側登り口脇である。普段素通りしながら何かしら古色芬々とさせている場所なので気にはなっていたので、グーグル・マップで位置を特定出来た時はやはりそうかと思ったものだ。明治44年(1911年)創建。左写真はそのまま残る当時の教会所主要施設(本殿と呼ぶべきか?)に至る階段。中央写真はその階段を登り切った地点で今はバトミントン・コートになっている。右写真は左写真の階段に至る手前の民家の門口に無造作に置かれていた宝珠。金光教は黒住教、天理教と並ぶ幕末三大新宗教なので、新興宗教と雖も歴史は古い。(続く)
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2021年03月27日

壽山古道−20:西子湾蒋介石行館

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【写真説明】蒋介石行館、略して蒋公行館は台湾に三十余箇所あるそうだ。蒋介石の別邸、別荘、招待所等に使われた。国立中山大学内に残る蒋公行館は西子湾行館と通称され高雄市指定古蹟だ。文化部文化資産局登録名は本投稿のタイトル通りである。更に現在は「西湾芸廊」として中山大学の管理下にある(左写真)。西子湾ギャラリーとでも訳せようか?様々な文化活動の場を提供しているはずだ。筆者自身は蒋介石並びに、殆ど日本時代の建物・施設を接収し蒋公行館として仕立て直された建築物群に興味があるわけではない。従って、中山大学構内のそれも初めて今月になり出掛けてみた。建物全体を鉄骨スレートが覆い修復工事を待っているのか(中央写真)、閉鎖されていた。中山大学敷地が日本時代、並びに、中山大学キャンパスとして選定された1979年までの間、何に利用されていたのか?少しネットを渉猟してみたが判らず。終戦直前に米軍が作成した地形図で同地を見ても建物群で覆われているが、軍病院(Military Hospital)以外の記載が無いので軍事施設と想像され、四子湾行館も軍司令部等の建屋が前身だったと勝手に想像していた。これは強ち間違った想像とも言えない。大学構内には日本時代の軍事施設遺構が点在しているからである。ところが最近になり、実際は昭和10年(1935年)に挙行された「始政四十周年記念台湾博覧会」の際竣工させた「高雄観光館」が前身であることを知り俄然興味が湧いた。そこでこれも竣工当時から軍事施設と思い込んでいた西子湾隧道(歴史建築指定、文化資産局登録名は「西子湾隧道及其防空設施」)(写真は隧道の中山大学側出入口間近に建設された「堡塁」の案内板が附された大防空壁)を徒歩で潜り中山大学のキャンパスを観光館まで出掛けたわけだ。日本時代、「壽山洞」と呼ばれた全長260bのトンネルは、元々は西子湾海水浴場へのショートカットを目的に壽山記念公園の一部として昭和2年(1928年)に完工した。大東亜戦争の深化に伴い防空施設が追加された。2017年になりこれら日本時代構築の防空施設は軍事遺址として一般開放され観光客を集めている。尚、右写真は西子湾行館正面玄関脇に展示されているPackard製蒋介石のお召車のようだ。(続く)
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2021年03月20日

壽山古道−19:「日軍爐灶」

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【写真説明】左・中央写真は高雄人ハイカーに依り唯一「日軍」を冠せられた壽山山中の軍事施設遺構、厨房跡である。2017年撮影。当時は有志の方に案内して貰ったが、筆者一人では今でも現地まで辿り着けそうに無い。右写真は高雄市軍事遺址シリーズの一つ、壽山山裾の鼓山洞(防空施設)の前に立つ案内板。2019年撮影、当時の高雄市市長をモチーフにした案内板だ。軍事施設遺跡観光なるフレーズで内外の観光客を呼び込もうとの苦心が滲み出ている。

現在でも壽山の三分の二は国軍の管理下にあるので、壽山山中、その周辺には戦前の軍事施設遺構、加えて、建設時は軍事目的では無かったが最終的に軍事施設に改編された遺構は多い。高雄市街地内の一地域である壽山ですらそんな調子なので、旧高雄県まで広げると実に多く、高雄市政府観光局は整備と紹介に努めているが、整備の方が全く追い付かない状態だ。紹介の方は遺構の案内板を「高雄軍事遺址」のタイトルで統一し「高雄市軍事遺址觀光」促進活動を鋭意展開中である。壽山山中にも砲台、トーチカ等無数にあるのだが、国軍のそれらと区別を付けるのは難しい。そんな中で、高雄人に依り壽山山中で唯一「日軍」を冠せられたものが今回紹介した厨房跡である。(続く)
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2021年03月13日

壽山古道−18:「浅野セメント株式会社打狗(高雄)工場)」−2

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【写真説明】文化部文化資産局に「歴史建築」として登録された旧浅野セメント打狗工場内遺構の正式名称は「原淺野水泥台灣工場(紅磚倉庫及石灰窯)」(旧浅野セメント台湾工場、赤レンガ倉庫及び石灰窯)、公告日は2020年3月26日である。今回掲載した写真はその丁度3年前の2017年3月11日に撮影されたもので、前回の投稿で述べたように今は鉄骨スレートで保護されている。この倉庫は日本時代の当地の写真に明瞭に写り込んでおり、前回引用した報告書中の紙袋に詰めたセメントの袋詰め出荷用倉庫だったと思われる。ここから高雄運河を通じ高雄港へと運ばれたのだが、その高雄運河自体は前回モノクロ写真上で示したように今でも残っている。尚、浅野セメントに代表される浅野財閥の創業者、浅野総一郎と台湾との関り合い、同会社打狗工場の操業等に関しては、古川勝三氏のニッポンドットコムへの寄稿『台湾を変えた日本人シリーズ:高雄港の開発に尽力した浅野総一郎』に詳しいのでそちらに譲ることにして、同寄稿の中から以下の下りのみ抜粋しておく:「ロシア革命が起きた大正6(1917)年になると、打狗山の良質な石灰岩を原料にする「浅野セメント打狗工場」を新設し、縦貫鉄道と打狗港を利用して、インフラ整備が加速されつつあった台湾全土にセメントを供給し続けた。その結果、やがて台湾におけるセメントの80%を賄うまでになり、台湾の近代化と打狗港の発展にも大きく貢献した。」(続く)
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2021年03月06日

壽山古道−17:「浅野セメント株式会社打狗(高雄)工場)」

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【写真説明】壽山東側は台湾セメント公司(略称「台泥」)の石灰岩採掘場とセメント工場が拡がるが、今現在は殆ど営業を停止していると思う。前身は浅野セメント高雄工場であるのは高雄人には良く知られている。但し、その敷地内に浅野セメント時代の遺構が存在しているのを知る高雄人は少ない。左写真は壽山山腹から台泥敷地内を俯瞰したもの。工事中だが「柴山滞洪池公園」と呼称される親水公園を設えている途中。2017年3月の撮影だが、未だに完成せず、連日土を掘り返している。同写真の中に、浅野セメント時代の三箇所の遺構が写り込んでいる。中央写真はその遺構の一つ、昨年2020年3月になり漸く文化資産局に歴史建築として登録された「石灰窯」。動物園と北壽山登山口を結ぶ登山道沿い、台泥の敷地内の最も西側奥にあり、台泥の敷地が東側で接する幹線自動車道鼓山路からは以前は草木に埋没していた為、看難かった。右写真は石灰窯基部、既に百年を経過したレンガ壁は実に精緻、台泥はよくぞ排斥しなかったものだと半ば感心する。
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2021年02月27日

壽山古道−16:「柴山部落越嶺古道」−2

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【写真説明】繰り返すが、壽山の西側は台湾海峡に臨む美景の海岸線である。中山大学キャンパスの最北端の大学施設である文学院脇から海岸への降口が設けられており、海岸に降り立ちそこから北側約3`の海岸線は歩行が可能である。海岸線を含む古道として著名な台東県の阿朗伊古道に肖り最近は「柴山阿朗伊古道」と呼ぶ向きもあり、この呼称が人口に膾炙するにつれネット上での紹介数も市民権を得つつある。筆者自身も柴山漁港以外はこの新歩道に踏み込んでみたことは無かったので、先日その起点の海岸まで降りてみた。驚いたことが二つあった。一つは海岸の漂着物、詰りゴミが非常に少ない事、二つ目はそれも手伝って海岸線は非常に美麗である事。左写真は、自動車道柴山大路脇の柴山阿朗伊古道への降口直下の光景、中央写真は降り切った海岸の光景(同パノラマ写真)、右写真は前回投稿写真と同じく、柴山西側最高点付近からの海岸線俯瞰。(終り)
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2021年02月20日

壽山古道−15:「柴山部落越嶺古道」−1

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【写真説明】壽山の西側は台湾海峡に臨む美景の海岸線である。この海岸線から立ち上がる壽山西面はサンゴ岩が露出した絶壁を擁しており、登山に興味の無い人には、実は市街地側東面程では無いが、登山道が縦横に張り巡らされているのを想像するのは難しい。中山大学キャンパスの最北端の大学施設である文学院脇から登り始めるのが一般的である。前回紹介した内惟越嶺古道越嶺点=柴山部落越嶺古道越嶺点から台湾海峡側へ下ると2百b程で鉄門で登山道が遮断され軍用道路に突き当たる。そこから軍用道路は海岸線の小漁港、高雄市鼓山区桃源里柴山部落まで降りて行くのだが、軍管制区内なので軍用道路に襲われた古道部は大っぴらに歩けない。但し、柴山部落自体は軍管制区内に有り、明末〜清初代に掛けての創建である柴山山海宮、漁港(2020年撮影)、居住地、畑地、果樹園を含む。嘗ては壽山西面側は頻繁に登り多く撮影した記憶があるのだが、やっと探し出して来たのが今回掲載した三枚である。左写真は地元ハイカーにA、B、C線と呼ばれる西斜面主要登山道の内のどれかの登山道風景、中央写真は西側最高点付近のサンゴ岩絶壁、右写真は西側最高点付近より俯瞰した柴山部落。何れも2003年撮影。(続く)
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2021年02月13日

壽山古道−14:「内惟越嶺古道」-2

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【写真説明】龍泉禅寺登山口から龍門亭(東屋)を経て小坪頂方面へ向かう壽山北側の登山道目抜き通りが中心亭に至る分岐点手前で内惟越嶺古道と交差している(上掲左写真)。上掲中央・右写真はその古道部の情景。古道は中心亭上部で目抜き通りと交差(下掲左写真)する。その後、雅座方面へ登山道目抜き通りを辿ると雅座下で古道は越嶺点に至り古道を離れる(下掲中央写真)。越嶺点以降台湾海峡へ抜ける古道部は柴山部落越嶺古道と称されている。下掲右写真は柴山部落越嶺古道の越嶺点から暫く入り込んだ部分の情景。
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2021年02月06日

壽山古道−13:「内惟越嶺古道」-1

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【写真説明】「内惟」とは地名であり台湾鉄路(鉄道)の駅もある。ウィキペディア中文版の「鼓山区」の項には日本時代の高雄地区の行政区画の変遷が詳述されているが、日本語版は僅か一行、「日本統治時代の田町、寿町、山下町、湊町、新浜町、哨船町、大字内惟が戦後統合され鼓山区が誕生した」とだけある。ところで「惟」は「思惟(しい)」という日常語があるように「おもう」が訓読みだ。そんなことを知り始めたのは、前回投稿で紹介した幻の高雄山一等三角点の行方を捜索している途次、標高70bの「内惟山」なる三角点が埋定された一座が存在することを確認(中央・右写真)してからである。三角点と言っても戦後のもので、台湾省政府圖根補点である(下掲写真)。戦後も点の記が引継がれたとすれば点名は「内惟山」では無く「内惟」では無いか?と筆者は勘ぐっている。「山頂」は壽山登山口としては最も伝統的な龍泉禅寺(龍目井)脇から登り始め、木製階段の最初の坂を登り切った踊り場から左手に辿った、大振りのガジュマルが纏わりついたサンゴ岩礁の上である(左写真)。最初はネット上で得たGPS座標を携帯に仕込んで出掛けたが見付けられず、二回目の捜索で行き着いた。最も伝統的な登山道であるだけにハイカーの往来は壽山の中で最も激しい。この登山道は壽山北側最高点付近まで木製或いは疑似木製階段が付けられており万人が歩けるようになっているが、その登山道の一部が内惟越嶺古道を襲っているはずだと容易に想像された。その通りだった。(続く)
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2021年01月30日

壽山古道−12:「哨船頭古道」−10

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【写真説明】嘗ての壽山山頂は、陸測一等三角点が埋定された標高355bの点名「打狗山」或いは「高雄山」(筆者自身は未特定)だったが、その山頂は今は消失しているので、台湾小百岳の一座としての壽山は嘗ての高雄山の南側にある、標高337bの通称「南壽山」を代理壽山としている。但し、行政院体育委員会(台湾小百岳の選定母体)の登録では355bの標高を残してある。左写真は南壽山山頂直下の東屋(涼亭)、山頂が軍管制区内にあるのでこの東屋を公式の台湾小百岳の代理山頂として認定されている。中央写真は、山頂の高雄市政府に依る主控点、目的は判らず、ハイカーは三角点と称している。右写真は山頂から南側の俯瞰、裕仁親王の歩かれた「皇太子殿下御登山記念碑」から哨船頭古道の北側起点の大坪頂砲台方面を見降ろす。哨船頭古道の壽山館附近より上部、大坪頂砲台までの区間は全て軍管制区内なので一般人が肉眼で確認するにはこのような方法しかない。
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2021年01月22日

壽山古道−11:「哨船頭古道」−9

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【写真説明】哨船頭古道に関する最後の二回の投稿は東西の古道起点を簡単に押さえておこうと思う。左写真は登山街が哨船街と交わり南下、高雄港に出会う部分でカーブし西子湾方面に抜けるが、そのカーブする辺りに設けられた哨船頭公園。こうして哨船頭の古名が維持されている。中央写真は哨船街が古道西側起点雄鎮北門と出会う地点、筆者の背中右側が打狗英国領事館文化園区である。右写真は現時点では工事中の北門砲台。(続く)
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2021年01月14日

壽山古道−10:「哨船頭古道」−8:「打狗英國領事館及官邸」と「登山古道」

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【写真説明】哨船頭古道の西側起点(古道最低点)である著名な国定古蹟「雄鎮北門」砲台の僅かに東側は「打狗英國領事館文化園区」として整備されている。元々丘の上にある英国領事館官邸が高雄市指定古蹟として開放されていたが、丘の下の領事館も修復・復元された。これら二つの遺構を結ぶ通用道は今は「登山古道」として修復され、三つながらにして国定古蹟である。掲載した写真は左側から領事館側古道出入口、その上部、更に領事館官邸側古道出入口の景観。埋め込んだパノラマ写真は、サンゴ礁の中をうねるように伝う古道途中の白眉部分。実際この古道、登りでも五分程度で歩けてしまう。
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2021年01月09日

壽山古道−9:「哨船頭古道」−7:「打狗水道」

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【写真説明】左写真は、旧打狗水道浄水池入口。団体で見学申請すれば入れて貰える。同写真右側に覗くドームは浄水井戸の上部構造物。中央写真は浄水池。右写真は、浄水池下方の市街地内に残る打狗水道量水器室、浄水池同様市指定古蹟だが、全く保護されている気配無し。文化資産局の登録申請文の中には、西洋古典様式とかトスカナ柱とかの単語が散りばめてある。
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2021年01月02日

壽山古道−8:「哨船頭古道」−6:「壽山館」−2

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【写真説明】左写真は、前回投稿記事「壽山古道−4」の右写真に写る登山道階段を軍管制区側から見たもの。中央写真は、実際の登山道階段、直に百年を越そうとしているが、残存状況は驚く程良好だ。右写真は東屋の遺構状況。同写真奥の樹木が切れた部分から中山大学職員宿舎が望める。同東屋は裕仁親王高雄巡啓時に撮影された写真にも写り込んでいる。ここでは、「登山街60巷歴史場域」内の案内板Iに掲載されたものを転載、マーキングを加えた。
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2020年12月26日

壽山古道−7:「哨船頭古道」−5:「高雄温泉」

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【写真説明】左写真は、寿山国家自然公園北寿山駐車場出入口脇にある土地公「石頭公」、この下に青泉街に沿いに渡した側溝があり同駐車場との間に小さな橋が架けてある。その下に嘗ての高雄温泉ETtoday新聞雲、2019/01/08記事より転載)の冷泉(鉱泉、又は冷鉱泉)が湧き出している。中央写真は、その湧水が冷泉である証左であろうと思われる水泉花と呼ばれる麺状の白色物質が側溝を覆っている様子。呼び名は雅だが、昔、何処の溝川でもお目に掛かれたような気もする。右写真は、高雄温泉の露頭と思われる附近の側溝の景観、中央写真と同じ側溝で、前記の駐車場出入口から龍目井方向へ100bぐらいの場所。同写真右側に温泉館が建っていたかもしれない。
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2020年12月19日

壽山古道−6:「哨船頭古道」−4:「龍目井」

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【写真説明】左写真に写る柴山こと寿山への最も伝統的な登山口は鼓山区龍井里にある万寿山龍泉禅寺横にある。ハイカーの登り降りの洪水の切れ目を狙って撮影したら、却って高雄人のこの山への愛情が霧散してしまった。この登山口は寿山古道の内、内惟越嶺古道の東側起点ではないか?と筆者は睨んでいる。その登山口脇(左写真の日傘下)に格子状の蓋を被せた水路(中央写真、登山口を背にして撮影)があり、通常はそこを「龍目井」と呼んでいるようだが、実際の水源地は山中のはずだ。右写真は登山口に至る道路の一つ、「青泉街」の指導標、その意味する所は本文記事を参考にして欲しい。
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2020年12月12日

壽山古道−5:「哨船頭古道」−3:「打水」水源地

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【写真説明】「歴史場域」が中山大学敷地と接する最上部の直ぐ下にG番案内板「打水湾の水路跡」が立つ。即ち、壽山の中で希少な水源地から流れ出た湧き水を、嘗ての打水湾まで誘導するサンゴ石を積んだ水路が残っている。その付近はその湧き水が染み出し、水生植物の群生が見られる(左写真)。中央写真はG番案内板附近の景観、カヤツリグサが群生している。右写真は、G番案内板から下り、F番案内板「サンゴ石の排水溝」が立つ辺りの景観、水生植物が繁茂する排水溝とはG番から流れ落ちて来た飲料水の水路である。
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2020年12月05日

壽山古道−4:「哨船頭古道」−2:「壽山館」

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【写真説明】左写真は、「壽山館」跡地に立つ中山大学職員宿舎B棟西端から裏側に抜ける自動車道、筆者の背中左手から宿舎裏の山域に入り込んだ。そこは小さな空き地になっており、国軍管制区域警告板が立っている。中央写真左奥にサンゴ石の石塁が覗いている。この写真を撮影した際は意識していなかったが、右写真に写るコンクリートの階段を支えている。即座に、壽山館後方に開削された登山道、前回投稿で紹介した「展望道」の一部、裕仁親王も歩かれた古道だと判断した。
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2020年11月28日

壽山古道−3:「哨船頭古道」

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【写真説明】左写真は、「登山街60巷歴史場域」内の清代古道部分の丁度中間地点、F「サンゴ石の排水溝」の案内板が有る辺りの古道の景観、南側を振り返った。中央写真は、歴史場域内で最高点で最後の案内板、10「清代の古道と日本統治時代の展望道」(同写真右奥)越しに嘗ての打水湾、現在の高雄港側を望んだ。右写真は、中央写真とは反対方向から、登山街60巷方面を望んだもの。旗津-鼓山往復フェリー上からの撮影だが、清代古道を意識していたわけではなく、同写真上側の真っ直ぐな稜線上に写る白色の建物群の内、中央やや左側に写る黒っぽい屋根をいただいた建物(日本時代設営のゴルフクラブと謂われる。高雄人は「小白宮」、ミニ・ホワイトハウスと呼んでいる。国軍管制区域内に付き進入不可)を確認するのが目的だった。清代古道の目的地、大坪頂砲台は同じ稜線左側、裕仁親王が足を運ばれた最高点(「登山記念碑」が建てられた)は逆に同稜線を右側に進む。同写真中央奥のレンガ色の建物群は中山大学構内。そのまま右側に辿ると、裕仁親王のご宿泊地である「壽山館」なのだが、今は同大学職員宿舎に襲われている。
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2020年11月21日

壽山古道−2:「壽山清代古道」

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【写真説明】壽山清代軍事道路の一本である「哨船頭古道」の「歴史場域」内段、登山街60巷の入口付近の景観を三枚掲載する。住宅街の路地の登り一方の階段である。左写真の左側に写る日本式家屋は歴史場域のトイレ、詰り登山街60巷は歴史場域の西側に沿った路地。中央写真は、歴史場域内の4番目の案内板「壽山清代古道」の案内板が立つ辺りの景観。右写真はその案内板を過ぎ更に登山街60巷上方を望んだ。
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2020年11月14日

壽山古道−1:「登山街60巷歴史場域」

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【写真説明】左写真は行政区画では高雄市鼓山区壽山里に属する登山街60巷(巷は丁等に相当する住所の単位)入口を登山街西側から望む。中央写真はその登山街60巷に入り込み、そこに最近になり(2017年9月)設営された「登山街60巷歴史場域」を背にして撮影。右写真はその歴史場域の最下段を一望したもので、パノラマ写真も添付した。この広場は元々高雄築港出張所官舎跡地だったと現場に説明がある。
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2020年11月07日

出関古道−11

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【写真説明】通称「南湖遥拝所」は、南湖派出所より台3号線を僅か(恐らく100b程度)に北上、東側に登る自動車道を登り切った辺りの平坦地にあったはずだ。左・中央写真はその台3線との三叉路とその地の字(あざ)、右写真は日本時代建立の「遥拝所建設記念碑」、但し建設日、碑建立日の刻字無し(或いは故意に剥落?)。
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2020年10月31日

出関古道−10

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【写真説明】私事で恐縮であるが、昨日は筆者の62回目の誕生日だった。このブログ、何時まで書き続け、どう結末を付けるのか?考えあぐねる日々が続く。。。出関古道の周辺点景として後二箇所だけ紹介を続ける。出関古道東段北側起点を確認する為に、台3線から西側に郷道60号線を4`程辿ったと紹介した。この道中、往路か復路かは忘れたが、古ぼけた附近の名所案内板を見付け、そこに日本時代古蹟として石橋と駐在所が書き込まれていた。石橋の方は見付けられず。駐在所跡の方も殆ど諦め掛けていたが、復路、台3号線との三叉路まで降りて来た時、その交差点越し左手に明らかにそれらしい遺構が見えた。郷道60線を基準にすれば台3線の僅かに北側である。その時はそのまま高雄に戻るべく台3線を南側に下り遣り過ごした。後日、同じ苗栗県の一座に登った際、現地を時間を掛けて巡った。現在の苗栗県大湖郷南湖村南湖派出所に隣接していた。派出所勤務の警官は驚くべきこと(?)にこの遺構に関し何の知見も無かった。しかも、この遺構部分は派出所の敷地外のプロパティーとの由。但し、台湾ネット上で、この遺構の紹介を見付けられず、筆者の拠り所は、郷道60号線上の案内板のみである。(続く)
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2020年10月24日

出関古道−9

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【写真説明】出関古道東段、十份[山|東]段の北側起点の点景三枚。左写真は、台3線から自動車道である郷道60号線を西側に辿った末に往き当たる同道の最高点にある古道との分岐点。中央写真はその峠の自動車脇の意匠。この意匠の中心は、伝統様式に拠る「茶亭」、日本風に謂えば峠の茶屋である。右写真はその峠の茶屋。完全復元なのか修復なのか?は筆者は判断出来ず。但し、大正年間の建立である。
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2020年10月17日

出関古道−8

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【写真説明】新百二份山を越えさらに古道を北上すると産業道路、農道が一条の古道と数箇所で交差している部分もあり、台湾電力に依る工事現場とか意味不明の構造物と相まみえたりし、興が削がれると言えないこともないが、印象的だったのは、眼前一杯に広がった生姜畑であった。このカテゴリーの最初の投稿記事で紹介したように、この地は生姜の一大(?)生産地との触れ込みなので、ちょっと驚いたのである。実は霧が張り出して来て良い塩梅になったのだ。畑の西端は古道がそのまま農道なのだが、この部分の南側出入口(上掲写真)と北側(下掲写真)のそれを並べた。栽培状況が判るように、このパノラマ写真を添えた。(続く)
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2020年10月10日

出関古道−7

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【写真説明】雲洞山眺望台から約700b地点にある東屋「百壽亭」と、その脇にまだ立ち続ける新百二份山(847b)の三角点、正式には圖根點(地籍四等三角点)である。台湾ネット上に、この山名の別称として「菜寿凸」の表記を見付けたが、こちらが点名かもしれない。余談だが、地籍三角点の埋定、測量は、一等三角点に代表される陸測三角点のそれより早い。第三代台湾総督児玉源太郎治下、民政長官後藤新平の指揮で、臨時土地調査局(左写真に銘有り)を設立、ドイツの測量方法に拠って、地籍(土地戸籍)調査目的で三角測量を開始したのが、明治31 年(1898 年)、明治38年(1905年)に測量を完了させている。当時埋定された三角点標石は約3,300基、その一基なのだが、どんなに新しく見積もっても優に百年を越えている。それにしても「新」を冠したこの山名は悩ましい。では旧名、即ち新無しの山名がありそうなものだが、手元の地図を眺める限り見当たらない。序でに山名の中の「份」に言及しておく。安倍明義の『臺灣地名研究』に依ると、「份(分)」とは、「もともと脳灶(十灶を一份という)を設けた地に因んで名づけられたという。一説には份とは開拓した土地の股份(持分の意)の義であるともいわれている。」「脳灶」の読みは「のう・そう」、「灶」は「かまど」(竈)の意、樟脳の煮窯の事だと思う。尚、竈は「灶」の異体字である。要は附近は日本人が入り込む以前から樟脳精製の小屋が点在していたと謂う歴史点景だ。(続く)
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2020年10月03日

出関古道−6

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【写真説明】本古道の最初の投稿記事にて、古道東段(十份[山|東]段)4`、西段(聖関段)2.5`、現在歩道として整備されている部分の総延長は従って6.5`。この東段4.5`の距離は、どうも県道130号線を起点とし、雲洞山頂上の眺望台迄の距離も含めているようで、東段の実質的出入口は眺望台の北側に口を開けている(上掲写真)。そこからだと、東段の距離は約3`、筆者は時間の関係で凡そ三分の一だけを歩いてみた。古道入口から暫くの間は、古道然としており筆者を喜ばせてくれた(下掲左写真)が、直ぐに古道修復工事に往き当たった(下掲中央・右写真)。(続く)。
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2020年09月26日

出関古道−5

【写真説明】出関古道の最初の紹介記事の中で、古道東西段の分岐点を一応苗栗県県道130号線上としたが、実際古道東段の出入口は雲洞山最高所の眺望台(下掲写真)北側にある。県道からこの眺望台に至る迄は、「大湖薑麻園休阡_業区」(通称「薑麻園」)が横たわり遊歩道が付けられているので、ハイカーの好みによりコースを選べるのだが、総じて退屈な遊歩道だ。但し、眺望台からの眺望は先の投稿で紹介したように、腕に自信のあるカメラマンが群がる様が保証してくれている。その眺望台から撮影した写真二枚と聖衡宮横の民宿二階から撮影した写真を以下に掲載しておく。■マークをクリックして欲しい:

眺望台から南西方向、関刀山とその稜線。この方向からだと大人しい山勢である。
眺望台から北東方向、即ち出関古道東段を望んだものだが、実際古道がどう延びているのか?までは判らない。同写真左奥に写る小山は、古道東段のマイルストーンの一つ、新百二份山(標高856b、ネット上で「菜寿凸山」の別称を見付けた)。
聖衡宮横の民宿二階から撮影した南東方向に望む雪山山脈と雲海。2019年11月3日、朝約6時。(続く)

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