2023年01月07日

壽山古道−35:半屏山(7):半屏山機槍堡

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【写真説明】明けましておめでとうございます。今年も弊ブログを御贔屓賜りますよう御願い申し上げます。持病に依る体力低下に加え、タイプ等の細かい作業に対する生理的・心理的抵抗が次第に大きく為りつつあることを考慮し、本年年初より本ブログの更新頻度を二週間に切り替えさせて頂きますので御了承お願い致します。

前回紹介した防空壕を過ぎ北側に僅かばかり辿ると、当該遺構に行合う。試しに「機槍堡」をグーグル翻訳に掛けてみると「機関銃砦」と返された。恐らく別な専門用語があるはずだが、今はこれで良い。左写真はサンゴ石を利用したプリミティブな塹壕と、サンゴ礁内に開鑿された戦備道と併せ南側から撮影、台湾南部のユニークな軍事インフラ遺構だ。中央写真、右写真は同じ塹壕の正面、並びに内側。現在迄の所、同種の塹壕遺構は半屏山内でここ一箇所の模様。(続く)
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2022年12月31日

壽山古道−34:半屏山(6):半屏山防空壕

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【写真説明】脊梁西側の最も北側の登山口は左営慈母慈恵堂と云う廟堂である。ここの登山口は二つのルートに分かれており、一つはメインストリーム、もう一つはメインストリームより標高の低い場所に開鑿されており(左写真はその登山口、鉄条網は軍事施設)北側でマージするのだが、狭いサンゴ礁中の登山道で嘗て軍用道路(戦備道)だったと考えられる。中央写真は防空壕全体、約7bの長さで同写真画面を斜めに横切っている。又、同写真右側に排気口が突き出ている。その他の部分はカモフラージュされており構造物が見えない。右写真は防空壕出入口。台湾にはまだまだ多くの防空壕が存在するのだが、その効能は如何に?(続く)
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2022年12月24日

壽山古道−33:半屏山(5):半屏山南砲台

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【写真説明】半屏山を登山対象とし最高点の展望台を目指す場合、正規の登山口は脊梁西側の南部に三箇所ある。その内、最南部の登山口から入り木製の遊歩道の最初の踊り場の先の薄い藪の中(左写真)に、分厚いコンクリートの塊がバランス悪く居座っている(中央写真)。半屏山の登山道の中のメインストリームの脇に転がしてあるように存在する(右写真:実際は滑落、倒壊した後の状態)のだが、意識して歩かない限り目には飛び込んで来ない。事実、筆者はそれとして意識して初めて在処を確認したのだが、それ以前は全く筆者の視野外だった。不思議としか言い様がない。(続く)
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2022年12月17日

壽山古道−32:半屏山(4):半屏山洞窟工場

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【写真説明】前回の記事で案内板を訳出したように、台湾新幹線左営駅真向かいの後巷通りに沿い、三組の米軍爆撃避難地下工場(『半屏山日治時期戰備設施』論文、第77n)が日本海軍第六燃料廠に依り設営された。北側から、(半屏山)第四原油(洞窟工廠)、潤滑油、酸素の順にレイアウトされ、順に4、3、2連のトンネルで繋がっていた。これらの9箇所の出入口は今でも容易に見て取れる。今回はランダムに選んだ3箇所の現在(2022年4月現在)の洞窟工場東側出入口の現況。左写真が第1号、中央写真は第4号、右写真は第5号。
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2022年12月10日

壽山古道−31:半屏山(3):半屏山戦備水池

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【写真説明】台湾新幹線左営駅から最も近い半屏山内旧日本軍設営の軍事遺構、貯水槽。左写真は南側、槽幅4b、中央写真は槽長12bの東側側面、右写真は北側、同写真右側に写る道路は現在の湿地帯内の遊歩道、当該遺構との位置関係から、嘗ての軍用道だったはずだ。
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2022年12月03日

壽山古道−30:半屏山(2):半屏湖(半屏山湿地)

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【写真説明】壽山国家自然公園の一画としての半屏山に関し、次の二点は前回の投稿に含めておくべきだった。一つは、現時点では台湾新幹線(高鉄)の南側起点である左営駅に隣接していること。左営駅は高雄地下鉄(捷運)、台湾鉄道(台鉄)も相乗りしており、市街地から半屏山へのアクセスは非常に便利になった。もう一つは、同山西側に沿った部分は半屏湖と呼称される、嘗て石灰岩採掘の際に利用された沈砂池、即ち人工湖があり、国家自然公園管理処は湿地帯として売り出し中である。この人口湖の存在は以前から知っていたが、実際現場に立ったのは今年になってからである。ここだと左営駅から本当に近い(左写真:左営駅から湿地帯へ最短の入口)。湿地帯としての魅力が出て来るのは、石灰事業の残骸が高い草と湖水で隠される時だ(中央・右写真参照、同一点から南北を望む)。国家公園開園から十年を超えてしまったが、目の肥えた鑑賞眼に耐えられるには時間が掛かると思う。イントロが冗長になってしまったが、次回以降は国家自然公園管理処の委託報告書『半屏山日治時期戰備設施先期調査計畫成果報告書』(各遺構の位置概念図はこちらのダイヤグラムを参照)に沿いながら駆け足で紹介していく予定だ。ところで、半屏山と古道の接点は何か?と訝る向きもあるかもしれないが、あくまで旧軍事道、旧工業道路と云うことになる。(続く)
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2022年11月26日

壽山古道−29:半屏山(1):半屏山概観

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【写真説明】最高点200b強、南北長3`弱、東西幅1`弱の半屏山は「ミニ壽山」と呼べるかもしれない。そんな中で半屏山の自然遺産を代表するのがここに掲載した「千年石壁」と呼ばれる同山脊梁西側に位置する石灰岩の大岩壁、どう撮影で切り取ろうか迷ったが、読者に想像して貰うしかない。台湾ネット上で岩壁高度情報見付けられず。ウィキペディア台湾版でも同じ岸壁が紹介してある。本来自然遺産としての側面には触れない積りだったが、半屏山紹介の初回として僅かに紹介することにした。ところで、両者一つだけ大きな違いがある。半屏山には猿が生息シテいないことだ。これは奇異な感じを与えられるし、此れ故、半屏山を贔屓にするハイカーがいるかもしれない。
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2022年11月19日

壽山古道−28:左營龜山(2)

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【写真説明】壽山国家自然公園の公式サイトでは各三地区に対し絵地図一枚と付属解説一枚が提供されている。その亀山の絵地図には頂上付近に「戰事營房遺址」 (戦時建築遺構)、「碉堡防空洞」(防空陣地壕)の二箇所の軍事遺蹟しか示されていないが、筆者が2016年当時に訪れた際の現地の案内板には、それらに加え「坑道」(トンネル)、「碉堡」(陣地壕)等も複数箇所示されていた。以上の戦事用語の翻訳は筆者の一存、だいたいバンカーとトーチカの区別も付かない。左写真は北側から亀山頂上にアクセスしようとしているところ。中央写真は中途の歩道景観。右写真は頂上付近の旧日本軍に依る砲台遺構と思われるもの。前出の絵地図には示されていない模様。何せこの一枚を撮影した当時は筆者はこの亀山頂上上の軍事設営の全てを国軍に依るものと考えていたのだ。(終り)
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2022年11月12日

壽山古道−28:左營龜山

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【写真説明】標高が僅かに60b少し、三角点も無い都会の喧騒の中にある山に誰が登ってみようと思おうか?筆者は2016年になり初めて全山歩いてみた。そして、それっきりだ。従ってその時の記憶を掘り起こしこの投稿記事に向かっている。その際山中に既にお役御免となった複数基の軍事施設を見ているのであるが、中華民国国軍に依るものだと思い込んでいた。実はそれらが全て旧日本軍が設営したものだと云うことを後日知る事になる。繰り返しになるが、亀山は清朝より名所だ。今は、蓮池潭に接した部分は勝利路と呼ばれる車道で区切られ小亀山と大亀山とに分けられている。亀山とは余りにも陳腐な山名、地名で、台湾、中国、韓国、日本共々多数存在するが、台湾版ウィキペディアではこの左営亀山がトップにリストアップされている。にも拘らず、日本版では外され台湾他地区の亀山が挙げられている。左写真は亀山頂上付近から蓮池潭越に望む半屏山。中央写真は右写真と同位置から左営旧城北門方面の俯瞰。右写真は壽山をシルエットにした亀山。(続く)
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2022年11月05日

壽山古道−27:「日軍爐灶」(4)

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【写真説明】筆者の手元のネット情報だと「震洋特攻隊撤退點戰備小水庫」、詰まり貯水施設であるが雨水の収集・貯蔵システムと云うことになる。第2退避壕に近接し、左写真が入口正面の様子、中央写真はその下部構造、右写真は上部構造だが、素人にはこの構造の理解は難しい。それでも機能美は伝わって来る。以前の投稿記事で紹介したことがあるが、壽山はサンゴ礁が隆起して形成された山なので全山石灰岩、水持ちが悪いことは特記すべき事項だ。(終り)
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2022年10月29日

壽山古道−26:「日軍爐灶」(3)

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【写真説明】柴山登山を日課の宗としている向きには「四口灶」で通じる日本軍厨房遺蹟は以前から良く知られた場所なのだが、人口に膾炙している割には、何故日本軍が当時柴山山中に厨房など設営したのか?その由来は語られないのが通例だった。筆者が現地に案内を得たのは2017年4月、当時は一人での再訪も可能と考えていた。丁度五年後の今年、実際一人で辿ってみたのだが、GPS情報を持参しながら大いに迷い、再訪初回は現地に行き付けなかった。再訪二回目も初回と同じく遺構現地の直ぐ傍まで達しているのは理解できてはいても遺構への出入口が見付けられなかったのは初回と同じ。最後はその出入口の上空から侵入するような無様な塩梅になった。五年を経て再度四基の竈(かまど)が並ぶ遺構を尋ねる気になったのは、一つは厨房が震洋特攻隊の「預備撤退山洞」(退避壕とでも訳せようか?)であったと云う情報を得たこと。本ブログの読者には蛇足と思うが、ウィキペディア日本語版に曰く「震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器(小型特攻ボート)」。『壽山古道−16:「柴山部落越嶺古道」−2』にてさらりと「柴山阿朗伊古道」に言及したが、壽山の震洋格納庫・発進基地はこの新規のハイキングロードの延長線の海岸線上にある。因みに、「爐」の訓読みは「いろり」、「炉」は異体字、「灶」のそれは「かまど」、「竈」は異体字。二つ目の理由は厨房として独立した箇所に加え、三箇所の退避壕と一箇所の給水遺構も残存しているらしいとのこと。殊に後者は新規の『水の古道』の発現となるか?こんな情報、過去二十年柴山へ通い続けても入って来ず、従って、筆者自身の五年前の探訪時の知見は皆無。今になってと嘆きたくなるが、これも国家自然公園への昇格と武漢肺炎禍と無関係であるまい。上段は竈の詳細描写を11x9版で。下段写真は、厨房に近い方から退避壕1、2、3号(現地では「坑道」と通称)、各退避壕は百人近い人員を収容可能との記述を見たことがある。初回探訪時撮影された「壽山古道−19」に掲載の一番左側写真はどうも第1坑道入口の様だが、実はこれらの退避壕に遭遇した記憶が無い。第2坑道の近くに上述の素人目にも特殊な供水システム遺構がある。(続く)
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2022年10月22日

壽山古道−25:『壽山古道−19:「日軍爐灶」』(2)

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【写真説明】壽山国家自然公園はこのダイヤグラムに示された東側から壽山(地図上では柴山)、亀山、半屏山の三山を抱合する。左写真は亀山と半屏山の間に鎮座する蓮池潭の畔のアトラクションの一つ、巨大な龍虎の張り子(2002年8月撮影)。嘗ては国内外双方旅行者向け定番観光地だったが、当時からここに写る巨大な張り子は定番化と陳腐化を促進する道具建てだったと思う。実際蓮池潭は清の時代からの由緒正しき名所旧跡であり、国家自然公園として新たな装いを整えつつあると思う。中央写真は高雄空港へ着陸寸前の機内から撮影(2005年8月)した壽山(左側)と半屏山、亀山は標高が低く写真上では認識し辛い。右写真は壽山山中の展望台より望む蛇山(壽山北面、2017年5月撮影、亀山に対する風水上の命銘だと思うが今は殆ど死語、軍管制区域で一般人は入山禁止)、亀山、蓮池潭、半屏山。このように三山共々お互いに見通せる位置関係にある。
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2022年10月15日

内本鹿越嶺古道西段−9:藤枝林道段(2):「土[土|龍]湾]

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【写真説明】嘗て表題の地名で呼ばれていた現在の行政区画は、高雄市六亀区中興里興龍社区である。位置を最も簡便に言い表すには、「六亀市街地の荖濃渓に掛かる六亀大橋を隔てた対岸」、或いは「六亀大橋の向こう岸」で十分適当だと思う(埋込ダイヤグラム参照)。過去二十数年、何回この地を通過したことか。「興龍」への改名のパターンは二文字化(オリジナル地名三文字を「龍」で代表させた)と雅語(この場合は「興」)の組み合わせである。安倍の『臺灣地名研究』には残念ながらこの地名は採録されていない。日本時代の地形図を確認すると、龍の文字は、「つち・へん」、「つち・あし」、「さん・ずい」、龍ママの四つのバリエーションがあることが判るが、主流は土扁だと思う。この灯台下暗しの典型的なストーリーである土[土|龍]湾という地名が筆者の気を大いに引いたのは、これまで投稿して来た今年の六亀警備道踏査の延長である内本鹿警備道西段起点としてである。しかしそれは事の始めであって全てではない。本稿は本来『水の古道』とカテゴライズさせるかどうか少々悩んだ。
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2022年10月08日

内本鹿越嶺古道西段−8:藤枝林道段(1):「中心崙社」

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【写真説明】国立台湾大学の研究に依ると、現在の藤枝林道(荖濃渓林道とも、どちらが正式呼称か筆者は未だに定かならず)に内本鹿警備道の最西端として配置された駐在所は、藤枝から順に、「森濤」、「宝山」(原文は旧体字)、「土龍湾」(台湾側表記では通常「龍」は土篇)となっている。以上を筆者の手元の市販地図+筆者知見と合わせると、以下の通りで、先の投稿記事の通り、藤枝森林遊楽区入口に並立する派出所は森濤なので、台湾大学の「松濤」の取り扱いが判らない。以下表記の順番は次の通り。(「台湾大学表記」)、(市販地図帳表記)、(現代通称)、(藤枝林道`数)、(現代行政区画):

・「藤枝」、森濤、藤枝、19.5`、高雄市桃源区宝山里
・「森濤」、ニ集団/松濤、ニ集団、15`、同上
・「宝山」、中心崙(チュウシンロン)、宝山、11.5`、同上
・「土[土|龍]湾」、興龍、興龍、0`、高雄市六亀区中興里

又、『三十萬分一台湾全圖』第5版と現代地図帳の藤枝林道を重ね合わせて看ると、両者の接点は藤枝以降は「チュウシンロン社」だけであり、これも台湾大学の森濤存在、出所を疑う理由である。左写真は、宝山派出所、林一宏リストに依れば中心崙駐在所の後継と推測されるもの。どう写真に写る道路は藤枝林道。中央写真は宝山社区発展協会(右)と衛生室、日本時代からの遺留家屋の趣あり。右写真は前両写真と同じ場所から二集団方面を望む。大きく写る山は頭剪山。同写真左側の建物は、旧宝山小学校、今は台湾大学の森濤、即ち通称二集団の方へ移動している。(続く)
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2022年10月01日

内本鹿越嶺古道西段−7:バリサン段(7)

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【写真説明】内本鹿警備道のバリサン段支線の最後は陸地測量部に経緯を表し、バリサン山陸測三等三角点で締め括る。点名不詳。出雲山林道起点を登山口とすると、目指す頂上は標高マイナス450b、最後の頂上への林道のアクセス口(左写真右側)は、バリサン駐在所跡から約850b。(終り)
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2022年09月24日

内本鹿越嶺古道西段−6:バリサン段(6)

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【写真説明】桃源中学生に依る旧バリサン社尋根踏査ビデオの内容は判りにくい。判りにくいと云う意味は、バリサン社の末裔の人々は何処に移遷しそこは今現在何と呼ばれているかということだ。林一宏リストのバリサン駐在所の「現在地名」の項には「無」と素っ気なく書かれている。でも今になりバリサン旧社に対し尋根の旅を続ける人々がいるのだ。そもそも桃源国民中学の現在行政区画は高雄市桃源区桃源里、当時の日本橋より更に北になる。他方、この尋根踏査を引率したのは宝山部落の長老、現在の行政区画では同市同区宝山里、藤枝林道途中にある集落、内本鹿警備道西段、嘗ての中心崙(チュウシンロン)社である。桃源中学と中心崙社の距離は相当あり、これら二つを繋ぐ契機をイメージ出来ない。今回踏査した出雲山林道沿いにブヌン族の旧社遺構、或いは住居遺構は二箇所、一つはバリサン駐在所遺構南側300b、もう一つは同駐在所遺構北側900b(林道1,600b付近)である。筆者のスケッチ、各々右側下と右側上に相当する。桃源国中踏査行の尋根の地と駐在所遺構南300bの住居遺構が同一かどうか?確認する術はないのだが、桃源国中動画に写る住居遺構は集落遺構の趣があり、筆者のイメージに残るスケールに大きな差がある。掲載写真左は林道東側の住居遺構、中央写真は林道西側。右写真はもう一つのブヌン族住居遺構と想定されるもの。(続く)
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2022年09月17日

内本鹿越嶺古道西段−5:バリサン段(5)

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【写真説明】バリサン駐在所遺構の筆者に依るスケッチを元に紹介するのが手っ取り早いのでそうさせて欲しい。出雲山林道は駐在所遺構の真ん中を正門から入り裏門に抜けていくような錯覚を覚える。林道は単純に遺構中央を北から南へと貫いていると云う意味だ。実際何処が正門なのか?は皆目見当が付かなかった。規模が大きかっただけに神社も建立されていたことは十分に想像が付き、その神社跡地と思しき残骸もあり、そこら辺りから正門の在処を予測出来たのかもしれない。上段左写真は、出雲山林道がバリサン駐在所遺構に入り込んだ時点で林道中央に設えてあった炉、前回のコメント通り、今年1月の尋根(魂)踏査の際に使われたものだと思われる。林道最南側から左側(東側)に延びる石塁が見事な部分のパノラマ写真を埋め込んだので御閲覧頂きたい。上段左写真と相向き合う形になる。恐らく石塁遺構としてはこの左側石塁が最高級のものだ。その石塁のクローズアップが上段中央・右写真、筆者の現場スケッチのハッチング右側と左側に相当する。下段写真は筆者現場スケッチの補完、左写真は駐在所敷地東側と思われる方面の遺構だ。ブヌン族石板意匠(無論意味判らず、尋根踏査の際置かれたものか?)と見事な石塁。中央写真はその見事な石塁を抱合する敷地東側に設営された正門かもしれない遺構、その右側は神社遺構ではないかと推論、四角形の台状を為しているからだ。右写真は水槽遺構?(続く)
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2022年09月10日

内本鹿越嶺古道西段−4:バリサン段(4)

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【写真説明】左・中央写真は出雲山林道と馬里渓との初めての出会い、馬里渓は荖濃渓の大支流である濁口渓の源流、濁口渓は最後は大津にて出遭い高屏渓に統合される。ここの渡河地点は小川程度だ。繰り返しになるが「蕃里」も「馬里」も「バリサン」の漢音訳だ。中央写真はその馬里渓を渡り切りバリサン駐在所まで最後の登りに掛かろうとする場所、同写真の手前に河原の石が写る。その坂を登り切り先ず目に飛び込んで来たのが、原住民が張ったと思われるテント、狩猟ベースキャンプと推測されるが彼等にとり招魂の地だ。但し、末裔の居住地を特定出来ておらず。次回は広大なバリサン駐在所遺構の概要紹介を試みる。(続く)

(追加コメント)ネットを渉猟していると『踏査「馬里山舊址」 桃源國中帶學生尋根』と云う今年1月22日付けのニュースに当たった。筆者の入山より僅かに一箇月前だ。高雄市桃源区文物館員に引率された桃源国民中学生に依り実施されたニ日間の踏査行なのだが、筆者が目撃したテントはこの時のベースキャンプ設営に使われた模様だ。彼等の目指したものはバリサン旧社、筆者の目標は駐在所遺構と云う違いがあるので、バリサン社の末裔の話も含めて別の稿を起こそうと思う。
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2022年09月03日

内本鹿越嶺古道西段−3:バリサン段(3)

【写真説明】林一宏『日本時代臺灣蕃地駐在所』目録上のGPS情報と今回筆者自身が踏査した現地のGPS情報は大きく異なる点(添付ダイヤグラムの上段が今回の踏査対象、下段が林目録情報)に関しては、これ以上の詮索は止めにする。両者の乖離が大きくそうそう容易に現地調査は無理と考えたからだ。この詮索途上で京都在住のM氏より京都大学のデジタルアーカイブ『台湾演習林植物調査報告』(一予報、1931年、 植物調査班、京都大学デジタルアーカイブシステム)の中から実際バリサン駐在所が写り込んでいる写真(第五十五写真)を紹介いただいた。筆者が当日撮影した中に同じ方向を写したものがないか確認したところ、先の投稿で掲載した内本鹿警備道越嶺点を含む南一段方面の写真がそのものズバリだった。その古写真に写り込んだバリサン社と今現在残されているバリサン駐在所遺構位置はどうも異なるようである。古写真のものは中央山脈により寄っている。それで一つの可能性を示唆する為に、バリサン段(1)の中に『理蕃誌稿』からの引用を含めた。要は理蕃事業の変遷に連れ居住地も変化した可能性が高いということである。筆者が起こしたダイヤグラムは筆者の今回の踏査行のGPS情報をベースにグーグル・アースに落とし込んだのだが、これらブヌン族旧社とハイキング目的地が本当に見えていたか?大いに疑問だ。いずれにしろ、そのダイヤグラムと対比させるために、林道第二崩壊地点から撮影した中央山脈東側眺望写真をクロップした。筆者手元の記録では、林道起点1,618b、第1崩壊部1,533b、第二崩壊部1,426b、バリサン駐在所遺構1,277b、蕃里山1,216b。。。と云う具合の下り、写真撮影箇所と遺構との高度差が150b。写真を使った後追いは難しい。(続く)

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2022年08月27日

内本鹿越嶺古道西段−2:バリサン段(2)

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【写真説明】二箇所の林道崩壊箇所から東側には、中央山脈南一段核心部の実に壮大なパノラマが拡がる。実はこの核心部に視覚的にも対峙したのは初めての経験だった。核心部とはこの場合、内本鹿越嶺古道の越嶺点である。左写真は最初の崩壊箇所より撮影したものだ。林道を含む斜面そのものが流失してしまった部分。越嶺点は、最後方稜線中の中間地点に双耳峰を呈している部分があるがその鞍部で、越嶺点を乗越し中央山脈西側に転じた後、古道は写真左側へと辿る。越嶺点が稜線の真ん中に来るように配したので良く分るかと思う。双耳峰に見える左側が見晴山(標高2,720b)、そのまま稜線を写真左端迄辿ると複数のピークが見えるが、最も左側ピークが卑南主山(同3,295b)だ。中央写真と右写真は、2009年の八八水災から13年目の出雲山林道の荒廃の景観例。(続く)
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2022年08月20日

内本鹿越嶺古道西段−1:バリサン段(1)

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【写真説明】左写真は藤枝林道方面から国家森林区入口・森涛派出所、(出)雲山林道主線(石山林道と交差)、同林道旧線(見附山登山口方面)を望んだ。前者は同写真左側から真っ直ぐに横切る道路、後者は同写真中央部崩壊部、前者の下側を走る道路。中央写真は筆者の手元の市販地図上では「出雲山管制站」、出雲山(雲山)林道と石山林道の分岐点、嘗ては大型観光バスが行き交いした場所で駐車場だけは残されている。後者は内本鹿古道東段を襲ったもの、現在は専ら卑南主山方面への登山道で、筆者も過去数回自身で車を走らせたことがあるが、この管制站の印象はゼロ。その駐車場脇に、藤枝分遣所跡地から続く、島田、金谷、日坂跡と想定される天通山北峰、天通山の稜線への入り口があることを事後知ることになる。右写真は林道起点から0.75`の崩壊部、最初から修復にダメを押されているようなもの、詰まり雲山林道は全面車乗り入れ禁止である。
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2022年08月13日

六亀特別警備道−61:第49宿「土山」(2)

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【写真説明】此処迄書き殴るようにして綴って来た六亀警備道の踏査行だが、大津〜土山間最南段の終りのみに留まらず、六亀警備道踏査行としても恐らく最後の稿となるかもしれない。土山分遣所跡地迄を踏査し判った事は、草津〜水口間の分遣所は痩せ尾根気味の稜線上に設営された為、設営地を囲む石塁は力学的には稜線両側に引っ張られる格好になり崩壊も速い。この為遺構としての残存状況が極めて悪い。従来の登山道としての六亀警備道南段起点は南真我山、ここから北側へ向かい稜線を登り詰めていく恰好になるのだが、稜線の広がりが大きくなる。こうして土山分遣所跡地の石塁はそれまでの南側駐在所遺構に比べると格段に良い残存状況を呈していた。上段左写真は、南真我山山頂直下の登山口からそのまま山頂を経ずして延びる農道(同写真左側)と、山頂を経由する農道との出会い、農道と旧警備道が並行して開鑿されている部分。中央写真はその農道(同写真中央)と旧警備道が交錯しており、農道は登山道として右側に分岐していく地点、石塁が残っている箇所があり、筆者が以前坂下分遣所跡地として推定した場所である。しかし実際の分遣所跡地はこの分岐点と出会う旧警備道と思しき別の農道を僅かに南側に戻った場所にあるがほんの僅かに戻るだけである。その旧警備道と思しき別の農道との出会いが右写真である。下段左写真は上段右写真より更に土山分遣所に寄った地点で分遣所跡地出入口、中央写真は最初に出会う土山分遣所正面石塁、右写真は分遣所後方の石塁、これら正面裏面石塁の規模が判るようにパノラマ写真を埋め込んだ。土山分遣所遺構の残存状況と規模の大きさを感得出来るかと思う。土山の次の宿場、坂下分遣所跡地以降は従来より歩かれて来た古道としての六亀特別警備道沿線で確認可能となる。(終り)
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2022年08月06日

六亀特別警備道−60:第49宿「土山」

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【写真説明】石部-水口-南真我山間は旧警備道の風貌を色濃く残す段である。石部、水口の各分遣所跡を正確に特定するには各々の遺構の残存状況が芳しくない。それでも現在の登山ルートが警備道を襲った部分か産業道路と錯綜している部分なのかは想定がそうそう難しくない。左写真は南真我山直下の警備道の景観、但し警備道は同山山頂を越しているわけではなく、あくまで頂上直下、付近である。中央写真は南真我山頂上、以前「六亀特別警備道−13(南真我山基点)」でも紹介済みでもある。当時は南真我山頂上直下を土山駐在所跡地と想定していた(「六亀特別警備道−12(土山駐在所?)」)のであるが、実際の跡地は更に北側の当時坂下駐在所跡地と想定していた場所(「六亀特別警備道−14(坂下駐在所?)」)とニアミスしていた。ニアミスの意味は次回の投稿で説明する。右写真は南真我山頂上を超えて真我山方面、詰まり伝統的な六亀警備道南段の南側端緒である。(続く)
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2022年07月30日

六亀特別警備道−59:第50宿「水口」

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【写真説明】二回目の大津段踏査の際辿ったルートを三回目も忠実に辿った後、水口分遣所跡地、南真我山山頂、更に土山分遣所跡地を確認した。大津、草津、石部間は赤色ビニールテープが張られる形で旧警備道に沿う登山道は確保されていたが、石部-水口-南真我山(筆者が嘗て頂上直下を土山分遣所跡地と推定)間は乏しい布条(登山用マーカー)に頼るしかなかった。それでも旧警備道部分は左写真に見るような路側石が残存している部分があり、目指す南真我山の方向は明確だった。分遣所跡地遺構は草津、石部と同様特筆すべきものは無かった。中央写真はハイカー、或いは警備道踏査チームに依って掘り出されたもの、右写真は分遣所跡地と推定される平坦地。(続く)
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2022年07月23日

六亀特別警備道−58:第51宿「石部」

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【写真説明】草津から石部に至るに旧警備道に依って辿ることをせず、セブンイレブン駐車場から茂林市街地北側へ移動、姿沙里沙里歩道(左写真)から辿ることにした。理由は前述したように世界二大胡蝶越冬地を目撃したかったからだ。今現在は大量のルリマダラ類胡蝶の乱舞のピークを迎えているので、確かに個体数は多いと形容するには相応しいとは思へど、筆者の目撃したものが、典型的な個体数なのかは判らず。当該歩道は胡蝶生態園を離れると旧林道を伝い高度を稼いで行くが、九十九折を繰り返す旧林道のカーブ地点二箇所で旧警備道と交差する。左写真は下側の交差点から入り込み警備道と交差したことを確認した地点、旧警備道沿いの赤のビニールテープは石部分遣所跡地まで張られているのを確認した。草津分遣所跡地と同じく、石部跡地も右写真で見るように石塁の残存状況は悪い。旧警備道は、上側交差点で突然ビニールテープ誘導が打ち切られていたので、そのまま旧林道を辿る(下段左写真)とその終点に至った(中央写真)。林道はそこで終わりだったが、そこから更に南真我山山頂へ向かう登山道が確保されているのを確認(右写真)出来たので、次回踏査の目標とした。(続く)
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2022年07月16日

六亀特別警備道−57:第52宿「草津」(2)

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【写真説明】左写真は前回掲載下段右写真に写る稜線最上部の景観、低価格のビニールテープだが実に心強い。中央写真は左写真の稜線を登り詰めた箇所で見出した、正にそのテープ張りの現場、散乱している飲み物容器からテープ張り作業は原住民に委託された模様だ。右写真は草津分遣所跡地、同写真左側に崩壊した石塁が見られる。右側が旧警備道。このように分遣所跡地としての遺構は僅かに平坦地と嘗ての石塁が見て取れる程度の残存状況だ。それでも草津-大津間は往時の警備道の景観が良く保たれている段だ。(続く)
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2022年07月02日

六亀特別警備道−55:第53宿「大津」(3)

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【写真説明】左写真は、ウィキペディア中文版『六龜警備線』中の「大津」分遣所の位置情報「推定地点はコンクリート階段の左側」のコンクリート階段、茂林風景区大門駐車場北端のコンビニの台27線を隔てて向い側、何故今までこの階段に気付かなかったのだろうか、極めて不可思議。その左側は空き地だ(中央写真)。右写真は、階段上から台27線向い側(コンビニ側)を望んだ。

品川分遣所跡地を押えた後、俄然第53宿大津以北を南真我山迄辿れるだけ辿ろうと云う気が湧いて来た。大津分遣所跡地が茂林国家風景区大門駐車場だとして、第52宿「草津」分遣所跡地迄辿る為の出入口は何處か?2016年という古い投稿にその写真を見付け、灯台下暗しを恥じた。2016年の段階で大津より艱難辛苦して南真我山まで至っているので、今現在は更に入り込むハイカーの数は減っているのが予測され、草津分遣所跡地まで辿れれば善しとすることにした。品川跡地と同じ扱いと云うわけだ。件のコンクリート階段を登り切ると直ぐに旧警備道と思しき道が現出している。既に廃棄された産業道路と交錯しているが、大概の部分で旧警備道とその後開鑿された産業道路は区別出来る状態にあると思った。驚くべきは、旧警備道と産業道路を交差させつつ高度を稼ぐ六亀警備道最南端の登山道に沿い赤いビニールのテープが張られていることだった。古道研究グループか心あるハイカーか?何れにしても、この分だと筆者が以前特定を試みた南真我山登山口イコール土山分遣所跡地までテープが張られているのを必然と思い出してしまった。

今回、第53宿「大津」から東進(実際は北進)、第49宿「土山」迄をコースを変えて踏査した。添付ダイヤグラムの赤線が第一次、グリーン線が第二次、オレンジ線が第三次、各々今年2月13日、3月5日、3月13日に敢行した。大津-草津間は忠実に稜線を踏んだ。草津-石部間は稜線を辿らず、姿沙里沙里歩道から旧林道を辿り石部に至り、更に林道を終点迄辿り、水口方面へのアクセスを確認した。第三次は第二次と同じルートで石部に至り、林道終点から南真我山、土山に至り下山した。従って、草津-石部間の警備道踏査はスキップされたことになる。このようなルートを組んだ理由の一端は、夙に有名な「紫蝶幽谷」(日本人観光客向けには「茂林ルリマダラ生態公園」)にて「世界二大越冬型蝶谷」(以上、茂林国家風景区公式日本語サイトより)の一つで胡蝶の乱舞する様を垣間見たかったからだ。初めて茂林風景区大門を潜った時より既に二十年を超えてしまった。
(続く)
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2022年06月25日

六亀特別警備道−54:第1宿「品川」(2)

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【写真説明】品川跡地はの石塁は残存状態の良いものは見当たらず、残骸が散乱しているような塩梅だった。分遣所建屋敷地は二段、若しくは三段の層構造を為しており複数箇所でビン類、碍子の散乱場所があった(以上、現場スケッチ参照)。左写真は最初に行き当たった竹林の中の土塁跡と思しき地点で掘り起こされたビン類、その中に、中央写真に写る瀟洒なガラス瓶があった。化粧水か薬液かは判らないが、ビン底に旭日旗に似たものがあしらわれている。ヤフーの古瓶のオークションの中に同じ物を見付け、少し驚いた。留佐屯山西峰頂上は地形的に突出してはいないので、GPS情報は手元に在りながら三角点を探し出すのに苦労した。そこから川崎、神奈川方面へどう辿るか?は考えないことにした。第1宿分遣所遺構を確認出来ただけで大いに満足したからだ。(続く)
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2022年06月18日

六亀特別警備道−53:第1宿「品川」

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【写真説明】([口|戛][口|拉]鳳(カラブン)吊橋を渡り切りそこを走るセメント舗装の道路(ガニ農路)を右側、即ち南側に折れる。直ぐに留佐屯山西峰方面への三叉路に行き合う。最初からいきなりの登りで筆者の運転技術では疑問の急坂が見て取れる。。。と以前書いた。日本橋分遣所の踏査が今年1月16日、約一箇月半後の2月26日にガニ農路に車を乗り入れ品川分遣所跡地の踏査を目論んだ。予想通り、ガニ農路は悪路であった。四駆は必須の悪路を普通乗用車で挑戦した。無論、筆者の運転に非ず、G博士の弟にお願いした。農路入口から品川跡地と目される留佐屯山西峰頂上に至る登山口まで落差600b、距離7〜8`を見込んでいた。当日、農路約1.5`地点で農道は倒木の為に大いに崩壊(上段左写真)、前日か当日早朝に発生したものと思われた。そこから徒歩を強いられたが、3`弱で登山口の貯水槽に辿り着いた(中央写真)。詰まり、品川跡地に至るには、ガニ農路の落差、正確には550b、距離大凡4.5`を征する必要があると云うことだ。熟練ハイカーなら最初から徒歩でも苦にはならないと思う。農道進行方向左側にある貯水タンクを横切り斜面を僅かに上がる(右写真)と、警備道跡を想起させる窪地(下段左写真)に出会う。そのまま辿ると石塁の残骸(中央写真)を見付けた。この石塁の後方は竹林で土塁跡を思わせる土手があり(右写真)当時の生活遺物が多数掘り起こされていた。明らかに品川跡地である。筆者の現場の簡単なスケッチを添付した。(続く)
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