2009年10月31日
関山越嶺古道−1
【写真説明】台湾を代表する山岳自動車道、通称「南横」西段の観光名所の天池にある、南横建設時の犠牲者を祀った長青祠階段途中から望んだ塔関山(台湾百岳72号、標高3,222メートル)。私の初めての南横のイメージはこれに尽きる、非常に強烈だった。2001年11月のことである。このイメージが強烈だったわけではない。その強烈だったという記憶が何時までも残るのである。イメージ自体はこのように写真に残っているから何とか手繰り寄せられるが、例えば、もっと感覚に訴えるもの、味覚などは、記憶だけが、味覚に取って替わられる。私は、これを「やぶ金」効果と勝手に呼んでいる。当時、鹿児島市の百貨店の老舗、山形屋の地下だったか、その傍だったかは忘れたが、「やぶ金」という天婦羅屋があった。今でもあるようだ。子供の頃、母に連れられここの天丼を食ったことがある。子供心に、この世に斯様なうまいものがあるだろうか?と思った。それから成人して、父と一緒にこの店に立ち寄り、やはり天丼を食った。とてもじゃないが、うまいとは思えなかった。でも、本当に味が変わったのか?さもありなん、しかし、詰まるところ、味は記憶には勝てないのである。暫くは、様々な場所で、様々な天丼を食ったが、母と一緒に食べた「やぶ金」と同じ天丼と同じかそれを越える天丼は日本中捜してもありようがない。そう、今回掲載の写真は、南横の「やぶ金」なのである。カラー・デジタル写真を白黒に反転させたので、ファイル・サイズを節訳した分、これまで掲載してきた写真より大判で掲載した。
台湾の脊梁、中央山脈と雪山山脈を東西に横断する山岳自動車道路は「横貫公路」と呼ばれ、以下の三本がある(註):
「北部横貫公路(通称「北横」)」=省道7号線(区間:桃園県大渓−宜蘭市)
「中部横貫公路(通称「中横」)」=省道8号線(区間:台中県東勢−花蓮県新城)
「南部横貫公路(通称「南横」)」=省道20号線(区間:台南市−台東県海端)
これら三本の自動車道路建設の際ベースになったのは、日本時代の原住民族に対する警備道(「理蕃道」)で、これら元警備道は今は北から順に、角板山古道、合歓山越嶺古道、関山越嶺古道と通称されている。今回は南横のベースになった、日本時代の関山越警備道路、現在の関山越嶺古道を紹介することにする。
これまでのメルマガ「台湾の声」に投稿した台湾古道の記事は、その沿線に渡って点景を選びならが紹介する形をとっていたが、今回紹介する関山越嶺古道はその延長が長く当時の遺構がかなりの規模で残っており、これまでと同じような紹介のスタイルだとだらだらと長くなるので、今回は古道核心部と、実際歩かずとも車をちょこっと停めて嘗ての警備道の風貌を勘弁に観察出来る場所を二箇所だけ選んで紹介することにする。>(メルマガ「台湾の声」2009年5月9日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
2009年11月07日
関山越嶺古道−2
【写真説明】南横の最高点、大関山トンネルの西口(左写真)と東口(右写真)。西口は車を停められるスペースはあるが、一般の観光客を引き留めるものは何もない。東口は台湾でも有数の雲海展望所。同写真に写る登山者は、かつての警備道最高所を経て関山嶺山(標高3,176メートル、台湾百岳76号)を目指す。中央写真は、西口脇の崩壊部。関山越警備道路はこの崩壊部上方を通っていたのだが、具体的にどの辺りかは見当が付かない。
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2009年11月14日
関山越嶺古道−3
【写真説明】南台湾の雄峰、関山の威容を読者の方々に少しでも感じ取って貰いたい為に二枚選んだ。関山(標高3,668メートル、台湾百岳12号)は、これまでもこのブログで写真を紹介したことがある(例→)が、その全部が遠望だったので、ここではもう少し山容がはっきりしたものを掲載する。左写真は、向陽山(標高3,603メートル、百岳17号)直下から望んだ朝日を浴びる関山。なだらかなスロープを見せている。右写真は庫哈諾辛山(標高3,115メートル、百岳85号)近くから望んだ関山の大崩壊部。左写真とは対照的。
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2009年11月21日
関山越嶺古道−4
【写真説明】左写真は古道東段起点、台東県海瑞郷(日本時代のハイトワン社)入口。旧警備道はここから新武呂渓を遡る。中央写真は、新武呂駐在所跡、現在の新武で見付けた。トタンで葺かれているが以前の駐在所の建物をそのまま使っているのには驚いた。一般のハイカーにとっは、関山越嶺古道=中之関古道、嘗ての全長170キロのうち僅かに4キロ弱を切り取ったに過ぎない。何故この段だけを千切ってきたかは、やはり古道西段が国家公園に内包されるからだろう。東段でこのくらいの古道を切り取ってくるのは然程難しいことではないとは考えている。但し、では東段の何処に古道が走っているかは一般向けの紹介で探し出すことは難しい。毛利之俊原著「東台湾展望」の中文復刻版を手元に、数度丁寧に南横沿線を辿ってみたことがあるが、なにせ、時間が余りにも限られている。写真は東段下段で車を運転しながら偶々見付けた東段の一部で、場所は嘗ての新武呂(現在の新武)とカホワザン(現在の嘉賓)の中間付近、自動車道左側岩壁上方に開鑿された警備道が見えている。正に今回の記事で紹介する「サクサク道路」だった部分だ。
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2009年11月28日
関山越嶺古道−5
【写真説明】左写真は林古松氏のチームに拠る「玉山国家公園関山越嶺古道調査研究報告」表紙。実際、関山越嶺古道に関するこのような研究報告書がどれくらい存在するかは判らないが、一覧すれば随一のものであることが即座に判る大作。玉山国家公園最南のビジター・センターである梅山は嘗てマスボアル社があった場所。今でも駐在所跡と古道が残る。中央写真はマスボアル駐在所跡、梅山村外れからその駐在所跡脇を通る舗装された産業道路が嘗ての警備道。何処までこのような状態で車、或いはバイクで辿れるのか?は未だ試したことがない。マスボアル社はもともとは今の台東県側、台湾総督府に対する抵抗運動の際に一部中央山脈を越えて移遷してきたと、上記研究報告書にある。
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2009年12月05日
関山越嶺古道−6
【写真説明】左写真は大関山トンネル東側口近くにある関山嶺山への登山口、関山越嶺古道の最高点に到るには、この梯子をまず登る。中央写真はその登山道を登り詰め古道最高点付近にある、関山越嶺登山者向けの里程標。但し、これが無くとも急登してきて稜線、或いは鞍部に出た地点なので最高点は誰でも判る。右写真は、古道最高点、つまり嘗ての高雄州・台東庁の州界、今は高雄県・台東県の県境から東側を望んだもの。同写真に写るのは嘗ての警備道、今は登山道で、この道はそのまま大関山トンネル東側に下りていくが、警備道は写真左側奥へ回り込んでいたのだが、今はその痕跡を探すのは難しい。
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2009年12月12日
関山越嶺古道−7
【写真説明】左写真は古道最高点を上から望む。関山嶺山への登山道と旧警備道との出会い。但し、旧警備道も最近まで同百岳への登山道だった。同写真左下角から写真右上に伸びるのが旧警備道、写真右下角から写真中央までの部分が現在の登山道で、私の背中側に関山嶺山がある。中央並びに右写真は関山嶺山の稜線から古道を見下ろしたもの。右写真の片側に雲の張った稜線は塔関山に連なる。
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2009年12月19日
関山越嶺古道−8
【写真説明】左並びに中央写真は旧警備道最高点から西側の現況。保存状態は割りと良いが、二百メートルぐらいがやっと歩ける状態で、大関山トンネル西側口真上まで辿れた。右写真はその辿れる所まで辿った地点から南横最西段、大関山トンネルに繋がる自動車道を見下ろしたもの。写真中央部の白く光る部分が道路。
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2009年12月26日
関山越嶺古道−9
【写真説明】左写真は向陽山大崩壊部上部から南横東段を俯瞰したもの。旧関山越警備道が中央山脈を跨ぐ核心部の俯瞰図ということになる。同写真左下に[土亜]口山荘、駐車場兼へリポート、[土亜]口派出所を含む広場が見える。この部分では現在の南横と旧警備道が重なるのはこの広場付近のみ。同写真右側の嶺が関山嶺山、それから写真中央部に写る最高点が関山、その間の稜線の最低部が旧警備道最高点、その点と上記広場を結ぶ線が旧警備道ルート、つまり、旧警備道は、白い帯となっている南横より山側(写真右側)拠りに開鑿された。右写真は[土亜]口山荘駐車場から仰いだ向陽山大崩壊部の片鱗。
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2010年01月02日
関山越嶺古道−10
明けましておめでとうございます。本拙ブログは足掛け五年目を迎えました。本年も何卒ご愛顧いただけるよう宜しくお願い致します。2010年の最初の記事は昨年からの関山越嶺古道の継続ですが、今回掲載した写真三枚の内、中央写真の古道残存状態は、私がこれまで見た中では、嘗ての警備道とそれをベースに建設された現代自動車道との関係を実に明確に切り取って見せているという点では台湾隋一の部分だと思います。
【写真説明】向陽山大崩壊直下に掛かる雲海橋。その雲海橋の下から現在の南横東段に沿う形で古道が残存しており、場所によっては車を停めてその古道に降り立てる場所もある。断崖絶壁面に心細い感じで開鑿された様子がよく判る。右写真は、[土亜]口派出所裏に残る日本時代の渓頭駐在所跡、最高点から東側の警備道はこの写真地点に下りて来ていた。
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2010年01月09日
関山越嶺古道−11
【写真説明】左写真は天龍温泉ホテル横に掛かる天龍吊橋、新武呂渓右岸側。ホテル前の広場・駐車場は日本時代には原住民に対する監視哨が置かれており、警備道も現在と同じ地点に吊橋が掛かり左岸に渡っていた。今に見る橋柱は戦後掛け替えたもの。この吊橋を対岸に向かって渡り出すと、左手に古道が延びているのが確認できる。それが左から二枚目の写真。但し、橋の袂、樹木で覆われた部分は大きく崩壊しているので、この古道を歩くのは難しい。対岸に渡り切ると日本時代の架橋の際にはめ込まれ今でも残っている銘板二枚。右写真はその内、工事人を列記した銘板の拡大。
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2010年01月16日
関山越嶺古道−12
【写真説明】南横は天龍ホテルを過ぎても新武呂渓右岸を遡り大きく迂回して左岸に移り高度を稼いでいき、やがて再び同ホテルより約三百メートル高い場所に出る。その南横脇に立つホテルの看板。この看板からそのままホテルへ降りる歩道が付いている。それが「古道」なのだが、日本人が開削した警備道ではなく、ブヌン族の連絡道だ。中央写真はその古道の様子。右写真は、古道途中から、天龍ホテル(同写真下)と旧プルプル社、現在の霧鹿を俯瞰したもの。同写真中央やや上に背の高い白い建物が見えるがその建物が集中している線を右側に辿ると小山が見える。そこが嘗て砲台が置かれていた場所。
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2010年01月23日
関山越嶺古道−13
【写真説明】現在の台東県海端郷霧鹿、旧プルプル社内には「霧鹿砲台記念公園」が設えてある。左写真は、日本時代に砲台が築かれていた小山。その手前は上水道施設だが、日本時代は駐在所が立っていた場所。左から二番目の写真はその砲台跡から霧鹿国民小学校越しに望むプルプル社全景。同写真奥の山々は新武呂渓谷。三枚目の写真は、公園に置かれた砲門。右写真は同公園内で見付けた「昭和三年六月」の銘を持つ石碑、「南無阿弥陀仏」の「(阿)弥陀仏」の部分だが、「南無(阿)」の部分は切断されてその横に並べて立ててあった。用途、経緯は不明。
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2010年01月30日
2019年01月12日
関山越嶺古道−15
【写真説明】関山越嶺警備道の起点、台東県関山鎮は全国唯一人口が1万人に満たない鎮と云う汚名を被っているようだが、台湾東海岸南部の大都市、活気に溢れていると筆者は思う。但し、筆者が車を降りて街中を散策するのは今回が初めてであった。台湾鉄道の駅舎(左写真)が日本時代のものと云う知見はあったが、実際初対面、何時の間にか新駅舎が開業しており、真向かいの新装復元の駅長舎と併せ旧駅舎は古蹟扱いだった。東海岸では例外では無いのだが、町中至る所で日本時代の家屋にお目に掛かれるが、恐らくこれ程の規模の日本家屋のコレクションは無いだろうと唸ってしまったのは、旧駅舎と省道20号線を隔て中山路越しに向かい合う関山警察署(正式には「台東県警察局関山分局」)付属の「警察史蹟館」(「関警史蹟文物館」)である。小さな別棟の付属博物館紛いの建屋を想像していたら、警察署ビルの後方は日本庭園(日本時代からあったはず:中央写真)になっており、その後ろは日本時代から受け継がれ現在も多くの棟が居住中の官舎群(右写真)であった。
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2019年01月19日
関山越嶺古道−16
【写真説明】初来(逢坂)―利稲(リト)間の新武路渓谷の美観はタロコ渓谷に匹敵すると書いたことがあるが、渓谷沿いに温泉が湧き出ていることには不注意であった。今回初めて気付いた次第。下馬(エバコ)と天龍ホテル(ブルブル)間の南横沿道に多くの車が停められていたので、何事かと思ったら、沿道渓谷側に足だけ浸ける温泉施設が設けてあった。名付けて「六口温泉」(左写真)、中央写真はその向い側の渓谷岩盤、硫黄で変色している。この温泉はほんの一例である。下馬は小さいブヌン族の村で、そんな村とはアンバランスな極彩色の「下馬温泉民宿」の建物が南横脇を占拠している(右写真は建屋の一角のペイント)のだが、冬場に拘わらず休業、或いは倒産状態。元々この温泉宿を目指したわけではなく、南横を隔ててこの民宿の向い側にある、南横道路工事関係者が主たる客人である民宿があり、それら客人の賄をしている女性が、今回我々の嘉明湖行の同じブヌン族のポーターの高校時代の同級生と云うことで、訪ねて行った。二十年振りの再開と云うことで、このポーターの男性、相当興奮していたと思う。彼らは南投ブヌン族、女性が働いているのは台東ブヌン族の村、筆者は中央山脈を越えたブヌン族の往来に驚いたのだが、後で珍しいケースでは無いことを知った。いづれにしても、下馬を紹介する題材として温泉を使った。(続く)
2019年01月26日
関山越嶺古道−17
【写真説明】台東県海端郷の中では最大の行政区画を擁するリト(利稲)村(左写真)は70戸、500人程度、新武路渓の支流である利稲渓の河岸段丘(その為、利稲台地と云う呼称を見たことがある)上に集落、原住民族の部落としては規模が大きいと思う。筆者が何を以て規模が大きいかと言うと、乗用車が余裕を持って擦れ違える幅を持った目抜き通り(中央写真は部落を東西に走る道路)があることだ。過去何度か立ち寄ったことがあり、村の西端にある小学校(霧鹿国民小学校利稲分校)の校庭で露営したこともあるが、部落の中を子細に歩いたことは無かった。嘉明湖行きを諦めたので、今回当地に二泊した。『台灣全覧』に依ると、マテングル(摩天)から下って来た関山越嶺古道は部落上方の南横公路を横切り、丁度派出所(関山分局利稲派出所)辺りに降りて来ているので、その痕跡を探してみることにした。リト―マテングル間の古道と南横との関係はこの概念図を参照すると判り易い。右写真は小学校付近から東方向の風景。(続く)
2019年02月02日
関山越嶺古道−18
2019年02月09日
関山越嶺古道−19
【写真説明】リトーマテングル(摩天)間の標高差は丁度500b、古道概念図で明確に判るように、この間、南横公路(省道20号線)が正に九十九折りで高度を稼いでいるのに対し、古道は一気に駆け上がっていた。古道と南横の交差点(或いは接触点)は三箇所、車窓から注意して沿線を観察するがリト側下二箇所は全く見当付かず。唯一三箇所目は自動車道が大きくカーブした付近(左写真)に市販地図帳でも公路総局(正式には交通部公路総局)関連施設(公路総局向陽監工站と摩天道班房:班房とは限定、管理された物理空間なので、道路工事基地の意か?)が明記されているので付近に車を停めて、キャベツに埋め尽くされた谷側斜面を見下ろし、凡そのコースと微かな痕跡を探した(中央写真)。同写真中央を斜めに横切る疎らな杉木立が見えるが、古道はこの線に沿って開鑿され、公路総局監工站の後方の山裾を次の駐在所であるカイモス(栗園)を目指したと想定される。右写真は公路総局監工站越しに何気なく撮影したものであるが、後になり、日本時代、監工站付近に砲台が置かれていたことを知った。実際の設置場所は左写真辺りか?偶々当時の兵士が俯瞰していた風景と相成ったわけだが、リトで民宿の方に、この辺りで砲台が置かれていたのは何処かと質問したら、ブルブル(霧鹿)だけだと云う答えだった。尚、向陽監工站は新装(改装?)間も無い状態に見え、新装の際、摩天道班房を取り込んでしまったようだ。(続く)
2019年02月16日
関山越嶺古道−20
【写真説明】向陽国家森林遊楽区入口脇の関山分局向陽派出所は、日本時代の向陽駐在所を襲ったものと筆者は考えており、「台湾百岳」ブログでもそう紹介した。ところが、今回嘉明湖を目指すに際し『台灣全覧』を眺めていたら、遊楽区内の観景平台(展望台)に括弧付きで「向陽駐在所旧址」が付記されているのに気付いた。つまり、現在の派出所は日本時代の駐在所の跡地では無く、実際は台湾二葉松保護林を利用した森林遊楽区内にあったと云うことだ。遊楽区は基本的に向陽山、三叉山、嘉明湖まで足を延ばさない観光客向けであり、東側(試しに日本語読み)に松陽(しょうよう)、向陽(こうよう)、向松(むかいまつ)、西側に松景(まつかげ:左写真)、松涛(まつなみ)の合計五本の遊歩道で構成され、何処を辿っても最後は向陽山への登山口に辿り着く。件の展望台(中央写真)は松涛歩道上にあり、ハイカーは専ら松景―松涛を登山道として利用している。この展望台(標高2,500b)までの登山道(1.5`)の部分が古道と重なる部分と想像されるが、展望台以降は右写真のような具合で藪に隠され皆目見当が付かない。(終り)