2007年06月09日
パイワン族秘道−1:帰化門社(キナリマン社)
【写真説明】帰化門社に関しては既に本ブログで何度か紹介した。東京大学総合研究博物館所蔵の鳥居龍蔵の台湾コレクションの内、「帰化社」の説明の付いたものは二枚ある。その内の一枚が、ここに掲げられているもので、背景に明確な稜線が写っているので撮影地点を容易に特定できるだろうと勇んで出掛けたのだが、結果は判らず仕舞だった。私の撮影地点は以前紹介した現在帰化社跡と林務局が案内板を立てている旧社跡地である。私の撮影した右写真と見比べてみると、明らかに鳥居の撮影地点ではないことが判る。
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2007年06月15日
パイワン族秘道−2:スボン(率芒)社(現屏東県春日郷士文村)
【写真説明】左写真は士文村の古華国民小学士文分校校庭にある台湾ニ葉松、樹齢百年を越えているそうである。同校は日本時代、率芒菜典公学校→率芒公学校→須本公学校と名を換えたと同校庭に設置されている案内板に説明されている。件(くだん)の二本の松は、当時、日本人教師「大橋」先生、「小原」先生、並びにパイワン族教師「李清吉」先生に依って植えられたと、同じく同校庭に設置された案内板に謂う。日本人が嘗て暮らしていた場所に植えられた樹木は今では台湾の古木として育ち続けている。楠と松はその代表である。中央写真は士文村全景、同写真中央の一番高い建物が派出所、右写真は村の一角、同写真上の山の右端に嘗て神社があったそうだが、今ではその空き地だけが残っているそうである。
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2007年06月26日
パイワン族秘道−3:アママン社(現屏東県泰武郷万安村)
【写真説明】左二枚の写真は旧万安社、パイワン族アママン社に唯一完全な形で残る石板屋、作業小屋・休憩所として使われているようだ。日本時代は同社には蕃童教育所も置かれていたので、村落の規模としては比較的大きかったはずだ。遺址内にはオオタニワタリが栽培され、近くには畑もあるので、廃棄されたとは云え人の出入りは現在でも頻繁にあり、旧社が藪の下に埋没するのは免れている。三枚目写真は、同旧部落内のオオタニワタリの栽培地。右写真は現万安村の万安国民小学校入口の彫刻と校舎壁に描かれた絵。
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2007年11月17日
パイワン族秘道−4:クワルス社(現屏東県泰武郷泰武村)
【写真説明】左写真は、現在のパイワン族クワルス社入口にあるモニュメント。右側二枚の写真はクワルス社旧居住地跡。新旧の居住地は僅かに数キロを隔てているに過ぎない。日本時代は蕃童教育所も置かれていたので相当大きな部落だったはずだが、今はすっかり畑と化してしまい住居跡だと想像するのは難しい。
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2007年11月24日
パイワン族秘道−5:カピアン社(現屏東県泰武郷佳平村)
【写真説明】左写真は旧カピアン社全景。現在は農地で檳榔その他が栽培されている。同写真中、檜様の針葉樹の幼木が植えられた場所はすべて旧社跡なので非常に広い。自動車道の足下に広がる。同写真その後方の左手の山斜面にプンテイ社(現佳興村)跡がある。写真では判らないが、肉眼だと畑状のものが確認出来る。カピアン社とプンテイ社とはクワルス渓を挟んで向き合っていた。中央写真は旧社の中。右写真は最近復元された頭目の家。
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2007年12月01日
パイワン族秘道−6:トクブン社(現屏東県泰武郷泰武村内)
2007年12月08日
パイワン族秘道−7:タウ社(現屏東県泰武郷武潭村)
2007年12月15日
パイワン族秘道−8:ピュウマ社(現屏東県泰武郷平和村)−1
【写真説明】左写真はピュウマ社入口にある貯水槽、日本時代のものと思われる。中央写真は旧社跡に咲き乱れていた曼荼羅(朝鮮朝顔)。植物に疎い私にはこれが野生なのかどうかは全く判らない。全く見事な花弁である。左写真は旧社内に残る住居跡。尚、本記事関連の旧社と山の大凡の位置はこのダイヤグラム(→ここをクリック)を参照して欲しい。
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2007年12月22日
パイワン族秘道−9:ピュウマ社(現屏東県泰武郷平和村)−2
【写真説明】左写真は武潭国民小学校平和分校の表門と校庭で生育しているパンヤの木。中央写真はパンヤの木の板根(板状の根っこ)。右写真は熟して落下した後のパンヤの木の果実の内部。
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2008年07月05日
パイワン族秘道−10:リキリキ社(現屏東県春日郷力里)
【写真説明】左写真は旧リキリキ社への降り口に立つ指導標で、2005年11月の撮影。同じ場所を2008年6月に撮影したのが中央写真。指導標は筆者のへ背中側へ移動した。標高は約1,000メートル。右写真は当りを付けて辿った産業道路が里芋畑を横切る場所があり、そこからリキリキ渓谷を望んだもの。実際の旧社は写真左端の遥か下方にあるのだが、私は写真の右へ右へと道を辿ってしまった。同写真右側に駆け上がっていく稜線の最高所が石可見山(標高1,621メートル)で、同稜線の左側ピークの裏側にチカタン社(老七佳)がある。写真の一番奥の最高所は北大武山(3,092メートル)で、石見可山を越え北大武山に到る稜線は屏東県と台東県との境界でもある。森丑之助の「生蕃行脚」に「蕃社の位地としては渓に臨み、山間の険隘の地を選み、戦略的に要害の地を相するを常とする」とある。森丑乃助はリキリキ社の位置を凡そ2,000公尺と言っているので、現在の林道との標高差は300メートルぐらいあることになる。尚、リキリキ社、チカタン社を取り巻く地形はこの俯瞰図を参考にして欲しい。
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2008年07月12日
パイワン族秘道−11:リキリキ社(現屏東県春日郷力里)−2
【写真説明】「老力里部落遺址入口意象導覧図」中にある「小社」部落跡と思しき場所の二葉。左写真の上側に大漢林道沿いの電柱が一本だけ写っているので、農作業小屋らしきものがある場所との高度差が凡そ判ると思う。二枚目の写真はその小屋の辺りまで降りてみたものである。最初はこの地が学校跡地かと考えたのだが、どうもそうではないらしい。何故、そう自信が無かったのかは、導覧図中にある「涼亭」を通過せずに降りてしまったからだ。常識的に考えれば涼亭は明らかに日本時代の遺物ではない、簡単に言えば屋根を持つ休憩所である。それで、この写真そのものが休憩所かなとも考えたがそうではあるまい。そこから更に下に下っていく道が見付けられないのだ。いずれにしても、今回見付けられなかったのは残念だったが、お楽しみが増えたわけで、そう自分を慰めながら山を下った。
森丑之助の「生蕃行脚」に謂う、「里芋はパイワン族蕃人の主要なる食品で、殊に其の種類も多様で良種に富んで居る。日常の食事にしても其大半は里芋で、皮の儘に煮て、外皮をむいて食ふのである。これは主食物として蕃薯より優ること数等で、食ふて腹具合と云ひ保ち方と云ひ蕃人の食物としては好適なものだと思ふ。」。これが右側写真である。口の悪い台湾人に言わせれば、何故マンゴーを栽培しないのか?其の方が儲かるのに、である。主食は何かを問題にしているはずなのだが。(終わり)
2008年07月19日
パイワン族秘道−12:チカタン社(現屏東県春日郷七佳)
【写真説明】左写真はチカタン社へ到る郷道途中からリキリキ渓谷を俯瞰したもの。同写真左側の最高所は石可見山(標高1,621メートル)、それより一段低いピークの左側山裾にチカタン社がある。又、同写真右側の最高所は大漢山(同1,688メートル)、それより下って来る稜線は力里山(同1,170メートル)に至るが写真に頂上は写っていない。同写真右側山裾下にリキリキ社がある。中央写真はチカタン社の中の一風景。森丑之助の「生蕃行脚」のリキリキ社の項に「頭目家の家の前には石盤石で積んだ小高き露台があってこれは指令塔の如きものである。必ず榕樹が植えてあって、この木は即ち頭目家の所在を示すシンボルなのである。」とあるが、実際これが頭目の家かどうかは自信が無い。右写真はチカタン社の登山口に到る自動車道脇で見掛けたパイワン族の粟(あわ)の畑。「生蕃行脚」に謂う、「此方面一帯の生蕃は粟、山薯、蕃薯、里芋を植え、これを主食物に充てて居る。」。
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2009年07月04日
パイワン族秘道−13:森丑之助「生蕃行脚」の世界-1
【写真説明】茄苳樹の大木、鳥居龍蔵も森丑之助も必ず見ている。ブツンロク社(現屏東県来義郷文楽)とボガリ社(現屏東県来義郷望嘉)を結んでいた当時の理蕃道は今は産業道路になっているのだが、この大木の辺りまで以前は車で乗り入れていた。今は入れない、途中が崩壊している為だ。右写真も同地点、当時の森丑之助一向も同じような井手達だったかもしれない。
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2009年07月11日
パイワン族秘道−14:森丑之助「生蕃行脚」の世界-2
【写真説明】「生蕃行脚」の中で多くの記事が割かれているのは、リキリキ社、ボガリ社、クナナウ社の三社。東京大学総合博物館所蔵「東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベース」の鳥居龍蔵台湾コレクションの中で、これらの社名がキャプションに入った写真は各々、3枚、5枚(但し、「ボカリ社」)、2枚しかないが、これらの写真番号の前後を丁寧に見ていくと、もっと多く撮影されているのが判る。但し、上記の合計10枚は撮影年が入っていない。「生蕃行脚」の地を森丑之助が鳥居龍蔵と訪ね歩いたのは1900年、上記コレクションを1900年で検索すると22枚が出て来るが、「生蕃行脚」の地関連は僅かに内社(ライ社)のものが一枚あるのみである。上掲写真は同コレクションからの転載、左から順に、リキリキ社、ボガリ社、クナナウ社での撮影。これら三社は本ブログでもかなりの記事で触れてきたので、興味がある方は、左側メニュー、トップの「記事検索」を利用して欲しい。
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2009年07月18日
パイワン族秘道−15:森丑之助「生蕃行脚」の世界-3
【写真説明】左写真は、現在のブツンロク社、来義郷文楽村にある屋根付き村民集会場の奥に掲げられた巨大なレリーフ。パイワン族を象徴するすべてが盛り込まれている。右二枚は文楽村の朝と夜。
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2009年07月25日
パイワン族秘道−16:森丑之助「生蕃行脚」の世界-4
【写真説明】左写真はチカタン社(老七佳)へ至る産業道路途中から力里渓を俯瞰したもの。写真奥が下流である。同写真中央部に白い橋柱が写るが白鷺吊橋。同写真右側、即ち力里渓右岸遥か山上にパイルス社がある。中央写真はその白鷺吊橋。今はこの吊橋の上下流に車が通行出来る橋があるので利用価値が無い。右写真はパイルス社(白鷺社)に至る産業道路から力里渓を俯瞰。写真手前が下流。つまり左写真と反対方向からの俯瞰である。写真中央に白鷺吊橋の橋柱が見えている。同写真手前の道路はチカタン社へ至る産業道路。チカタン社は写真奥の一番高く写る山の左側斜面にある。同写真左側山上がパイルス社である。
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2009年08月01日
パイワン族秘道−17:森丑之助「生蕃行脚」の世界-5
【写真説明】左写真は旧パイルス社入口に立つパイワン族男女の像。中央石碑上部に掛かる頭骨はイノシシ+アルファである。中央写真は復元された頭目の家。来訪者の宿泊が可能になっている。右写真は日本時代の衛生所跡に立つ案内板。
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2009年08月08日
パイワン族秘道−18:森丑之助「生蕃行脚」の世界-6
【写真説明】左写真はパイルス社の頭骨架(首棚)を目指し草叢を進む。中央写真はその頭骨架。私自身初めて見た台湾原住民族の頭骨架であるが、最早原型を殆ど留めていない。右写真はボガリ社への連絡道入口付近に設けられた見張り台だが、現代の来訪者向けのアトラクションみたいなものだ。ボガリ社への連絡道はご覧の通りで現地の案内人無しではとても入り込む気にはならない。
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2009年08月15日
パイワン族秘道−19:森丑之助「生蕃行脚」の世界-7
【写真説明】左写真はブツンロク社頭目の家跡の草叢を切り開く様子。中央写真はその頭目の家屋前に設けられた露台の一部。右写真はブツンロク社跡で見掛けた女郎蜘蛛。台湾の女郎蜘蛛は日本産に比べたら細身だ.、獲物はクマゼミ様の蝉なので女郎蜘蛛は相当な大きさであることが判る…こう書いてはてなと考えた。私がイメージしている日本の女郎蜘蛛は本当に太めなのか?台湾の女郎蜘蛛に取り絡められた獲物は果たして本当にクマゼミの類なのか?前者は調べてすぐ判った。多分日本と台湾の女郎蜘蛛は体長に然程差はないかもしれない。私の頭にあった日本の女郎蜘蛛は実は黄金蜘蛛(コガネグモ)、鹿児島県加治木町の蜘蛛合戦のそれである。クマゼミの羽は日本産も台湾産も透明であるが、写真のものは黒々としている…
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2009年08月22日
パイワン族秘道−20:森丑之助「生蕃行脚」の世界-8
【写真説明】左写真はボガリ社入口近くで、旧警備道を離れ山側へ分け入り頭骨架を目指す様子。右写真二枚はその頭骨架の袂に日本時代に建てられた「ボンガリ頭骨塚」。まだはっきりと読める。森丑之助の「生蕃行脚」では「ボガリ」の表記だが、塚の文字は「ボンガリ」になっている。日本の墳墓様式なのだが、墓石の下は空洞になっている。まさか、そこに無造作に頭骨を投げ込んだとも思われない。納骨堂と考えた方が判り易い。台湾の原住民旧社に今現在このような頭骨塚が幾つ位現存しているのかは判らない。残っているとすれば大概はこのようなこじんまりとした墳墓様式のはずだ。実は最大の頭骨塚、というより文字通り見上げるように堂々とした納骨堂は実は宜蘭市街地中心に残る。それについては何時か紹介する機会があると思う。
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2009年08月29日
パイワン族秘道−21:森丑之助「生蕃行脚」の世界-9
【写真説明】左写真は東京大学総合博物館所蔵「東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベース」の鳥居龍蔵台湾コレクションの中にあるボガリ社の頭骨架。7007番で「首棚」のキャプションしかないが、明らかに「ボカリ社」の頭骨架である。右二枚の写真は現在の同頭骨架の様子。7007番の写真と大体同じ位置ではないかと考えている。実際頭骨が残っているので頭骨架とな何だったのか?イメージし易いが、規模の大きかったボガリ社の頭骨架全体をイメージする為には、今や草叢が深過ぎる。それらを切り払い整備すれば非常な文化遺産となるのだが。
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2009年09月05日
パイワン族秘道−22:森丑之助「生蕃行脚」の世界-10
【写真説明】左写真はボガリ蕃童教育所がその始まりだった国民小学校跡地に残る国旗掲揚台。中央写真はその教育所の校庭から旧ボガリ社越しに屏東市方面を望む。右写真は旧ボガリ社の住居跡。
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2009年09月12日
パイワン族秘道−23:森丑之助「生蕃行脚」の世界-11
【写真説明】左写真は或るボガリ社住居跡に今でも掛けられているもの。ボガリ社は日本人が台湾を引き上げる時に同時に低地に移遷したわけではない。戦後長い間この地で暮らしていたわけで、その当時は望嘉村二十五号という番地だったわけだ。今は望嘉村は遥か低地である。もう一つは戦後長らくカタカナが使用されていた証左である。中央写真はボガリ社の祭場の中の祭壇の一つ。旧教育所の下にその校庭と同じくらいの平坦地があり、そこが祭場だとの説明を受けた。そこに祭壇が八つぐらいあって、写真で見るものは一番完全なものだそうだ。左写真はその祭壇を囲む石壁の一面に刻まれたレリーフ、ボガリ社の守護神というべきものであろう。
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2009年09月19日
パイワン族秘道−24:森丑之助「生蕃行脚」の世界-12
【写真説明】左写真はイノシシの足跡、これは現代の日本人でも珍しくないものだと思う。イノシシが増えすぎて農作物の被害が甚だしい地域が日本には多数あるようだ。なにせ日本のイノシシは海を泳いで島に渡り繁殖するそうだから。台湾のイノシシもそんな話を聞けば驚くと思う。中央写真は、以前の記事で紹介したイノシシの産褥。ボガリ社の頭骨架前で写したもの。右写真は、古びた掘削機と思しきもの。この説明は本文を読んで欲しい。
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2009年09月26日
パイワン族秘道−25:森丑之助「生蕃行脚」の世界-13
【写真説明】右写真は産業道路沿いに残るブツンロク社旧住居。これは偶々草の陰から垣間見れたもので、道路沿いに並ぶ殆どが草莽に覆われてしまっている。中央写真は現在のブツンロク社、文楽村前景。左写真はパイワン族の主食里芋を燻製にしたもの。私自身は非常に気に入っており、酒のつまみには最高である。
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2009年10月03日
パイワン族秘道−26:森丑之助「生蕃行脚」の世界-14
【写真説明】「生蕃行脚」の終点になるカピアガン社(現泰武郷佳平)、クワルス社(同泰武)については既に以前の記事で紹介済みである。プンティ社(同佳興)旧社はまだ訪ねる機会が無い。現在のプンティ社で旧社に入るのにどのくらい掛かるか?と聞いたら、さあ、相当掛かると言われたので当時は諦めた。左、中央写真はその現在のプンティ社の道路脇に立つモニュメントと集落。「プンティ」の文字が読める。中央写真右奥稜線の最高点は戸亜山(標高985メートル)、戸亜とは「トアアウ」の漢音訳で、トアアウ社のあった場所、今は大後社と呼ばれている。「生蕃行脚」の中には出て来ない。その稜線の更に奥、雲に隠れた部分が来社山(標高1,854メートル)である。トアアウ社については追って紹介する機会があると思う。右写真は、現在のクワルス社(泰武)の派出所付近から北大武山を望んだものだが、下掲の記事中にある「正に屏風の如く立ち上がった」様は表現出来なかった。本ブログ中にも大武山の写真は相当数掲載してきたし、ブログ「台湾百岳」に掲載した写真で我慢して貰うしかない。
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2009年10月17日
パイワン族秘道−27:森丑之助「生蕃行脚」の世界-15
【写真説明】二峰[土川]のモーラコット台風(2009年8号)の影響を紹介した後に、タナシウ社を紹介するのには理由がある。それは前回少しだけ紹介したと思う。旧タナシウ社に到るには棚集山山頂に到る何本かのルートの内、今現在最も歩かれていない一本を辿ることになる。タナシウ社跡までの道は明瞭で、途中何箇所か「石板屋」の表示があるが、これが現在の丹林村の旧社跡と認識している登山者は少ないのではないかと思う。左写真は、そんな石板屋への表示の一例。中央写真は旧社への上がり口。右写真は旧住居跡。手前の台は祭壇として使用しているのかもしれない。現在の移遷先とそう離れていない為、プラスチック製の椅子とかが持ち込まれており、快適に涼を取れるようになっている。
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2009年10月24日
パイワン族秘道−28:森丑之助「生蕃行脚」の世界-16
【写真説明】[タナシウ社] (屏東県来義郷丹林村)-2
左写真は来義郷丹林村復興社区、喜楽発発吾社、即ち二峰[土川]のふるさと、をタナシウ旧社に到る登山道から俯瞰したもの。『水の道』二峰[土川](5)で紹介した写真Eの川岸右手の崩壊部の更に上が撮影場所になる。2008年7月の撮影。同写真右側が来社渓(林辺渓)上流で、写真左上流にある地下ダムを通ってきた水は、同写真に写る集落の上辺沿いに流れている。来義国民小学校はすぐに判ると思う。鳥居信平の銅像が安置されている公園は右側集落外れにある。同写真右手前の耕地はモーラコット台風の餌食にされてしまった。中央写真は村の中心の拡大俯瞰、2008年10月の撮影。
右写真は棚集山(標高899メートル)頂上三角点と登山者。高雄・屏東地区の低山では写真に写るように椅子、テーブルを奇特な人が持ち込み、長い時間を掛けて談笑、食事を楽しむ。そのような人々の多くが百岳のような高山には興味がないのではないかと思う。頂上まで上がらず、中腹の休息所で日がな新聞を読んでいる登山客もいる。そのような風景は以前既に紹介した。要は、各個人の興味、体力、目的に応じ、各々山に居ることを楽しんでいるわけである。そんな台湾南部の低山はとにかく麓から頂上に到る登山道がやたら多いのが特徴だ。且つ登山道の随所にこれら写真に見られるような休憩所が設けられている。遮二無二頂上を目指す、それも出来るだけ高い場所を、という山の登り方は、このような楽しみ方とは程遠い。私など、山登りには対しては欲が深いので、未だにそんな楽しみ方が出来ないという反省がある。(了)
2010年04月03日
パイワン族秘道−29:森丑之助「生蕃行脚」の世界-17
【写真説明】左写真は「浸水営古道−18:帰崇段−2」で紹介した貯水タンクから帰化門営盤跡への道を少しだけ辿った場所、即ち現代の大漢山林道とリキリキ社へ向かう浸水営古道分岐点から俯瞰した潮州市街地と小琉球。森、鳥居も眺めた風景。中央写真は、リキリキ社上方に設けられた涼亭。ここまで行き着くのに相当な年月を要した。同写真最後方右側雲の掛かった嶺は南大武山。右写真はその涼亭からの眺望。手前の欝蒼とした茂みがリキリキ社上部。真ん中の稜線は石可見山へ繋がる。その稜線裏側にチカタン社がある。最後方の稜線左側にパイルス社がある。三社の位置関係を視覚的に示そうと試みた写真。
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2010年04月10日
パイワン族秘道−30:森丑之助「生蕃行脚」の世界-18
【写真説明】左写真はリキリキ祠の遺構。祠を支えていた台だと思う。初めて訪れた時はこれが唯一の神社遺構だと考えていたが、実は他にも意外な物が残存しているのを確認したのは第二回目の踏査時である。追って紹介する予定である。中央写真は、リキリキ社上部に残る浸水営古道の様子。右写真は学校(戦前は蕃童教育所)跡から神社へ至る階段を仰ぐ。高度的には神社・駐在所→古道(理蕃道)→学校(教育所)→集落の順番である。
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2010年04月17日
パイワン族秘道−31:森丑之助「生蕃行脚」の世界-19
【写真説明】森と鳥居の「生蕃行脚」はリキリキ社から始めたのだが、その理由が以下のように述べられている:
「私達は此度の旅行に於て、パイワン族蕃人の調査として先づ手始めにリキリキに赴くことにした。同社はパイワン族蕃人として堂々たる大蕃社であって、これから南にある萃芒蕃[スボン社、屏東県春日郷士文村]にしても、大亀文蕃[内文社を中心とした集落。屏東県獅子郷内文村]にしても下十八社蕃[現在の省道9号線以南の恒春半島に居住していたパイワン族。屏東県牡丹郷、車城郷、、満州郷、恒春鎮]にしても、此社以北の風と大に異った点があり、殊に住家の建築の如きこの以南のものとは全く異にして居る。同族蕃人としての標準的の土俗はこの社の南方と大差あるから、一般パイワン族的土俗が此蕃社で見るを便とする。」
典型的なパイワン族習俗を観察できるのがリキリキ社というわけである。
左写真は学校の構造遺構。戦後の国民小学校時代のものかもしれない。左から二枚目写真は頭目、或いはその一族の住居跡。ガジュマルの大木は圧巻である。左から三番目の写真は、まだ残っていた住居の梁(はり)。何故これだけが腐らずにいまだに残っているのかは判らない。森丑之助に依ると、パイワン族の住居に使われていた樹木は槻(けやき)とのことである。右写真は集落内にある貯水塔。駐在所跡にも同じ様式の貯水塔が残っている。(続く)
2010年04月24日
パイワン族秘道−32:森丑之助「生蕃行脚」の世界-20
【写真説明】左写真は駐在所跡。右手に見える案内板は本ブログ記事で紹介する合板製。左から二番目はその駐在所跡に生えているコーヒーの木。日本人が持ち込んだそうだ。三枚目の写真は神社と駐在所を結ぶ警備道、浸水営古道の一部。右写真は大社と小社を結ぶ道でこれも浸水営古道の一段。
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2010年05月01日
パイワン族秘道−33:森丑之助「生蕃行脚」の世界-21
【写真説明】さて、リキリキ社に関する最後の記事である。
「パイワン族秘道−30」で紹介したリキリキ祠周辺は、二回目の踏査では季節柄、見通しがよくなっていた。但し、私は祠跡そのものには目もくれず、浸水営古道を帰化門営盤跡方向へ辿るのと頭骨架を見付けるのに忙しかった。前者については、モーラコット台風の影響でリキリキ社遥か上方に耕されている畑の下方が大きく土砂崩れを起こしており、そこで古道は完全に断裂していることが判った。頭骨架は、まあ、予想した通り見付けられなかった。これはやはり地元の方に同行を願わない限りまず不可能なことを新ためて認識したに過ぎない。
祠跡に戻ってみると、同行した者が、凄い発見をしたと興奮している。それが今回の左三枚の写真である。「碑」という文字のみが残り、その部分で折れた石碑が倒壊している。碑の本体はその下敷きになっており、しかも、どうも碑の表面が地面に接しているので、何の碑かは判らない。剥き出しになった碑の土台が碑の本体に乗り上げているので、重機でも持ってきて吊りあげなければ碑の正体は明らかに出来そうにない。逆に、よくもこんな形で引き倒しものだと感心してしまう。尤も、刻字は処々に散見されるのでそれらを寄せ集めれば碑が何の為に建てられたか、専門家なら判定出来るかもしれない。「昭和十四年十一月九日改建」の刻字がある。「巡査」の文字があるのは、これまで何回か紹介したことがあるように、当時の理蕃政策の表れだが、同時に家族の名前、年齢まで刻まれていることが、この碑の謂れを探り出す手掛かりかもしれない。尚、その下の「犬」は姓の一部。前回の記事で紹介した「力里抗日事件」と関係があるとしたら、日が隔たり過ぎているような気もするが、そこは「改建」で解決出来るのかもしれない。それ以上は考えなかった。
この碑とは別に、前回見せられた祠の土台周辺にもセメントの枠囲いが残っていることが判った。これで明らかに祠跡だと知れた。右写真がそれである。
教育所から細い急な階段を登ってくるとまず警備道(古道)に出会い、その正面に祠、左手がちょっとした空地になっており、そこに嘗て石碑が建てられていた。以上のような構図は最初の踏査では全然描けなかったものだ。それにしても、第一回目の踏査の際、何故村長さんはこの碑を紹介してくれなかったのだろう?とふと思った。(了)
2010年08月07日
パイワン族秘道−34:四林格社(シナケ社)
【写真説明】左写真は、四林格社旧社入口。中央、右写真は、ひょっとしたら恒春半島パイワン族住居で特徴的な部分かもしれないが自信は無い。通常柱にする石板は薄く広く、そして丈があるのが通常だが、写真に見る物は厚く、丈はそれ程でもなく、且特徴的な切り欠きがある。
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2010年08月14日
パイワン族秘道−35:四林格社(シナケ社)−2
【写真説明】左二枚は「カセバカン」社入口に立つパイワン族男性の人形と丁寧な案内板。歩道全体図(左)+旧社住居配置図(右)が描かれている。これ以外にも、入口公園と旧社跡には案内板が適宜設置され、私がこれまで尋ねたパイワン族旧社の中では探訪者向けの整備が最も充実しているのに驚かされた。三枚目は歩道の様子。右写真は旧社入口付近から望む牡丹ダム。同写真中央やや上の白と褐色の部分。
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2010年08月21日
パイワン族秘道−36:四林格社(シナケ社)−3
2010年08月28日
パイワン族秘道−37:四林格社(シナケ社)−4
【写真説明】左写真は、シナケ社跡で見たものより、更に精巧な切り欠き。中央写真はシナケ社にもあったが、切り出された石板表面の不思議な波模様、これが自然のものかどうか?よく判らない。右写真は別タイプの模様。これらが自然のものかどうかは判らないが、他旧社跡で目撃した覚えがない、というのがミソである。
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2011年02月19日
パイワン族秘道−38:中間路
【写真説明】左写真は、屏東県牡丹郷中間路の一景。二枚目は中間路旧社へ至る産業道路入口と旧社案内板。三枚目は写真は中間路旧社、カジャジャナン社跡。右写真はクスクス(高士佛)山への登山指導標。
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2011年02月26日
パイワン族秘道−39:クスクス社
【写真説明】恒春半島内の自動車幹線道沿いに茶色の交通標識で登山口を示しているのは、私が知る限り二つしかない。高士佛(クスクス)山(標高514メートル)と女仍山(同804メートル)がそれである。クスクス山の方は、標識も立派なら、登山道沿線の施設も立派だが、何しろ緯度上は熱帯の上に例年複数の台風が襲いかかるので、今現在は写真に写る木製の施設は大分くたびれているはずだ。前回の記事で紹介したように、中間路から産業道路を辿れば同山の頂上に至るが、何故か登山口が中間路より東側の自動車道脇に設けられて、その登山道は中間路からの産業道路と往き合うように設えてある。中央写真は丈の高い茅に覆われた頂上施設。どうも三角点そのものを見た記憶がない。登り100分、2,500メートルの案内が登山口付近に出ていたが、一時間程度で頂上まで辿り着けた。途中、蟲蛇に注意!の警告標が目立つ。前回、今回、次回の記事閲覧の便宜を図る為にダイヤグラムを作成したので、参考にしていただきたい。特に、牡丹社事件に関する下りを視覚的にイメージし易いのではないかと希望するものである。
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2011年03月05日
パイワン族秘道−40:女仍社
【写真説明】6月下旬とは台湾では夏場である。そんな時に台湾の低山に登るのは推奨出来ない。容易に脱水症状を起こしてしまうからである。が、私はとにかくどっぷり汗をかきたいという渇望がある。草を搔き分け搔き分け山中を徘徊するのが至福である。女仍山(標高804メートル)は省道9号線のパイワン族の村、伊屯(日本時代のイトンザン)に登山口がある。この中央山脈最南部を横断する自動車道路上に標識はあるが、実際何処が登山口なのかは地元の人に聞かなければならない。頂上に至る稜線に出てから実際頂上に至るまでが長く辛い!途中、気持の良い沢に行き当たるのが救いである。登山口と頂上との標高差660メートル、往復約4時間。
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2011年06月11日
パイワン族秘道−41:中間路−2
【写真説明】屏東県牡丹郷石門村中間路部落の移転先の写真三枚。左写真はその入口に立つ碑。中央写真は入口に一番近い建物の壁に手書きされた部落の移遷史。平仮名と片仮名の各一単語が交る。右写真は新装住居。
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2011年06月18日
2011年06月25日
パイワン族秘道−43:クスクス社−3
【写真説明】左写真はクスクス旧社への入口。現在の高士村の一番上を走る自動車道脇にある。中央写真はその入口を少しだけ入ると広場になっており、そこに祖霊廟が設けられていた。同写真後方に写っている山頂が旧社方面である。同写真左側のコンクリートの道を少しだけ入ると古道入口を示す「勇士門」がある。右写真は今回我々を案内してくれた二人の小学生パイワン族勇士、そのゲートの前で撮影。
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2011年07月02日
パイワン族秘道−44:クスクス社−4
【写真説明】左写真はクスクス歴史穀道の様子。二枚目は古道途中に設けられた展望所。その展望所から現在の高士村越しに太平洋が見えた。それが三枚目。同写真右奥は嘗て66名の宮古島島民が漂着した八瑤湾。「パイワン族秘道−39:クスクス社」で縷々と記した、宮古島島民は如何にして山中にさ迷い殺害される羽目になったか?の視覚的な回答がこの写真である。彼らはまずクスクス社に迷い込んだのだ。
さて、古道の総延長は丁度1キロ程度、大した急坂もなく、休憩無しだと半時間程で歩き通せる。緩やかに登ってきた古道が平坦に代わるとカーン、カーンという金属音が聞こえてきた。何か作っているらしい、展望所のような小型の工事を思い浮かべた。
やがて古道脇に俄か階段が設けられており、そこが終点だとグ君が言う。右写真はその階段を登り切った場所。自動車道に出会った。高士国民小学校から上がってきたものだ。これが「自動車でも行けるのに。」の意味であった。
自動車道を横切ると更に粗末な階段が付いており、その階段を登り切った高台に小屋掛けしてあるのが、神社跡である。(続く)
2011年07月09日
パイワン族秘道−45:クスクス社−5
【写真説明】左写真、前回記事で粗末な階段だと書いたが、よく見ると日本時代に作られた神社に至る階段である。それが証拠に、階段を登り切った場所には鳥居を支えていた亀腹(かめばら)が左右とも残っていた。神社は旧社を完全に見降ろせる高台と云うより丘に設けられていた。
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2011年07月16日
パイワン族秘道−46:クスクス社−6
2011年07月23日
パイワン族秘道−47:牡丹社−1
【写真説明】今回と次回の記事は、牡丹社の紹介より、寧ろ現在の牡丹社を俯瞰できる牡丹池山(標高554メートル)が主役となる予定である。現在の牡丹村は、西側より、上牡丹、中牡丹、下牡丹の三部落から成る。牡丹国民小学校の幹線道県道199号線向かい側に牡丹公園なるものがある。そこに牡丹池山への登山口がある。そこから頂上付近を望むと赤白の鉄塔が突っ立っているのが見える。その名も発射台。これは山登りに飢えている人間には何とも悩ましい。最初にこの鉄塔を仰ぎ見た時は、或るいは往復1時間も掛からないのではないかと想像したのだが浅はかだった。二回目に挑戦した時も、二時間以内で往復と目標を決めたが大いに道に迷い、結局往復4時間の憂き目に逢った。左から二枚目写真は、牡丹池山登山道途中から、牡丹村全景、左から上牡丹、中牡丹,下牡丹の各集落。同写真奥、雲上に浮かぶのは大武山山塊。
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2011年07月30日
パイワン族秘道−48:牡丹社−2
【写真説明】左写真は牡丹池山登山道中の野牡丹。登山道とは云え、大部分は発射台に至る産業道路を辿る。今の時期、恒春半島の至る所で見られる。クスクス祠一帯に咲き乱れていた紫の花を野牡丹を初めて牡丹と認識した私である。この写真を掲載する為に今回の記事をわざわざ起こした次第だ。中央写真は、日本ではタコノキ(科)と呼んでいるが、台湾では「林投」である。正に木に咲く花の感があるが、これも今回クスクス祠の周り、牡丹池山登山中に「新発見」した次第だ。何とも豪華な香りがしたのだが、私の筆力では表現の仕様がない。右写真は、原住民によるオオタニワタリに栽培で、牡丹公園上部で撮影したもの。この菜園の中を登山道が通る。オオタニワタリの菜園は以前のアママン社記事で紹介したことがある。(終わり)
2012年04月14日
パイワン族秘道−49:大亀文王国−1
【写真説明】現在の屏東県獅子郷内文村内にある2000年に建てられた「獅子郷内文村遷村五十三週年記念誌」。誌碑に依ると、中華民国36年(1947年、昭和22年)、戦後間も無く、旧村から現在の地への移村が決定されたとある。右写真は現在の内文村の様子。
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2012年04月21日
パイワン族秘道−50:大亀文王国−2
【写真説明】左写真は旧内文社跡が存在するだろうと当りを付けた屏東県獅子郷内獅村の入口ゲート。中央写真と右写真は同村内の派出所兼鉄馬駅(台湾の各所に設けられたサイクリング・ステーション)。中央写真奥に写る海は台湾海峡。ここで旧内文社と予想される地への行き方と、案内人無しで立ち入っても良い許可を貰った。但し、聞き出した旧社までの距離情報は心細い。
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