2019年12月14日

特富野古道−1

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【写真説明】左写真は特富野古道東側起点となる自忠、日本時代の児玉の全景、海抜2,280b、嘉義県阿里山郷と南投県信義郷の県境になる。同写真中央の道路は省道18号線、通称阿里山公路。中央写真は、古道入口に立つ標示板。右写真は古道最初の里程標。
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2019年12月21日

特富野古道−2

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【写真説明】特富野古道の東側起点から平坦部約4`弱の部分の主役は、阿里山森林鉄道旧水山支線の軌道である。この軌道がどう云う状況で残存し古道に変じているか?が判り易い三枚を掲載した。左写真は柳杉の植林を縫う旧軌道。中央写真は架橋部の軌道を外し板を渡し歩道に仕立てたもの。右写真は架橋部を側面から撮影した。
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2019年12月28日

特富野古道−3

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【写真説明】左・中央写真は古道上沿線に残る伐採した後の巨大なベニヒの切り株。古道上に設えられた案内板(本稿で二基を紹介)の説明を読むと、日本人が阿里山のヒノキを根こそぎ切り倒してしまったと糾弾されるような気分になるのだが、実際は戦後も阿里山の林業は継続されたのだ。右写真は、古道が旧水山線軌道、即ち平坦部と別れ、特富野方面への下りに掛かる部分である。
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2020年01月04日

特富野古道−4

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【写真説明】今回掲載の三枚はすべて、古道西側起点、特富野側古道出入口附近。2009年7月のこの古道の初回探訪時に、古道全長を歩き通している。詰り、東西起点を往復しているのである。旧水上支線軌道と別れてからこの西側起点までの間、撮影した枚数はゼロ、僅かにここに掲載した古道起点の三枚が残っているのみ。余程時間に追われていたのだ。写真のデータを見ると復路に4時間近くを掛けている。十年前、五十の坂を超えたばかりの頃は、まだまだ相当な体力があった証左だ。今はそんな無謀な真似は出来ない。しかも西側起点まで確かに至ったと云う記憶が完全に抜け落ちている。この為、約四年後の2013年2月に、初めて特富野部落を尋ねたのだが、その時の第一の目的は、この特富野古道西側起点を確認することだった。(続く)
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2020年01月11日

特富野古道−5:トフヤ社−1

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【写真説明】左写真は阿里山郷達那村特富野社入口に立つ標示板。中央写真は特富野社全景、同写真後方の山々は阿里山方面だと思う。右写真は、同社内を巡る「特富野歩道」の案内板。前回投稿で記したように2013年2月に尋ねた際の目的は、特富野古道の西側起点を探し当てるのが目的、この特富野歩道こそが特富野古道の前哨路のはずだと隈なく歩いたのだが手掛り無し。特富野歩道は文字通り、生態散策歩道でしか無かった。(続く)
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2020年01月18日

特富野古道−6:トフヤ社−2

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【写真説明】上掲三枚の写真はトフヤ社の「男子会所」(男子集会所)、即ち「クバ」(庫巴)である。ツォウ族の伝統を象徴する場であり建築物なのだが、当時筆者自身そのような知識を仕込んでいたかどうか?下掲写真は、この場が厳格な女人禁制であることを警告したもの。以下の文章(拙訳)を認めた「敬告」が傍に貼られていた:「本男子聚会所はツォウ族の神聖な場であり、内部には多くの禁忌物があり、不測の事態発生を避ける為、トフヤ社の男子以外は立入り禁止区域である。」女人禁制とストレートに書かないのが現代のマナーであるらしい。不測の事態とは神の祟りを意味している。
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2020年01月25日

特富野古道−7:達那社−1

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【写真説明】現在のトフヤ社と達邦社とは曽文渓の支流であるイスチアナ(伊斯基安娜)渓で区切られるように位置している。北東側にトフヤ社、南西に達邦社と云う配置になる。この間は無論自動車道もあるが、特富野歩道の一部として達邦吊橋がイスチアナ渓越しに渡してある。同地に日本時代鉄線橋が渡されていたかどうか?は判らないが、筆者が当時撮影した写真の中に、鉄線橋橋柱らしきものがある。但し、全く記憶から抜け落ちているので今回投稿で掲載することは止めにした。左写真は、達那吊橋越しにトフヤ社側から達邦社方面の眺望。中央写真は、達邦社入口に立つ「鄒族生活寫照」と題されたツォウ族塑像。右写真は同じく達那社入口に立つ標示板。(続く)
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2020年02月01日

特富野古道−8:達那社−2

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【写真説明】当時、トフヤ社と達邦社を同時に尋ね、その差が歴然としていたのは、以下の三点である:一つは達那社のクバの規模がトフヤ社のそれと比べ格段に大きいと感じた事、二つ目は偶々達那社の「戦祭」の前日であった事、三つ目は達邦社には日本時代の駐在所が復元されていた事である。それら各々を三回の投稿に分けて紹介したいと思う。まずは、達那社のクバ、三景。「特富野古道−6」に掲載したクバの構築案内だけでは、左・中央写真の撮影方角が判らない。只言えることは、左写真がクバ正面に向かい左側、中央写真が右側であることだ。何故この二枚の写真で正面、並びにその左右が判るかと云うと、右写真である。クバ構築案内中の「金草蘭」の達那社式鉢植えはクバ正面の左右に置かれるのだ。実はこの左写真を撮影した記憶が無い。実際はカメラを縦にして、左右の鉢植えを同時に写し込んでいることから、その前にトフヤ社のクバの案内板を読んでいたか?(通常筆者の性格からそれは有り得ないのだが)。いづれにしても不思議な一枚である。(続く)
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2020年02月08日

特富野古道−9達那社−3

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【写真説明】ツォウ族の戦祭「マヤスビ」は極めて著名である。本投稿本文中で詳細を解説しておいた。毎年ツォウ族二大大社であるトフヤ社と達邦社で各々挙行される。筆者が尋ねた折は丁度達邦社の戦祭の前日、2月14日だった。トフヤ社の戦祭も同時期に挙行(一週間違いとか)されるはずだが、当時トフヤ社の戦祭に関わる何物にも遭遇しなかったはずだ。例に依り筆者の記憶が跳んでいるのかもしれない。左写真は達邦社のクバ近くの住居壁に貼られた戦祭案内幕、毎年更新されるのかどうか?は判らないが、ビビッドな色使いが戦祭の性格を表している。中央写真はクバ正面前に設けられた戦祭観覧席である。右写真は達邦社のクバの軒に掛けられた伝統道具なのだが、「敵部族の頭骨を保管する籠」では無さそうだ。
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2020年02月15日

特富野古道−10:達那社−4

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【写真説明】達邦国民小学校正門横には、日本時代、「タッパン駐在所」と呼ばれていたはずの警察官舎が復元されている(左・中央写真)。「日警官舎」(Japanese Polis Official House)と題された案内板には次のような簡便な説明が施されている(筆者拙訳):「日本統治時代、ツォウ族をオンサイトで管理し易く、抗日事件発生を防止する為に、この地に官舎を建造し日本人警官の宿舎を供し、統治権力を強化した。」。右写真は、日本時代のタッパン蕃童教育所(1904年、明治37年創立)の面影を残す達那国小の正門階段。既に創立百年を優に越した由緒正しき小学校である。(終り)
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