2018年11月10日
『水の古道』竹山隆恩[土/川]−1
【写真説明】左写真は清代開鑿の隆恩圳の今に残る日本時代改修部分を模したモニュメントで公園になっている。濁水渓を跨ぐ「集集攔河堰」(中央写真)の左岸部にあり、隆恩圳はこの現代システム建設に依り、文字通り枯渇してしまった(右写真)。同写真露出した石積み部は清代開鑿と思われる。
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2018年11月17日
『水の古道』竹山隆恩[土/川]−2
【写真説明】前回記事にて掲載した左写真の、南投県指定古蹟隆恩圳の現存する、但し水源を失い枯渇した水路出口を模したモニュメントの敷設された辺りの地下に、172メートル残存した清代開鑿の水路が穿たれている筈だ。そこから程遠からぬ所、省道3号丙線に沿って旧水路は開鑿されているが、そこへの降り口に文字がすっかり褪せ落ちた案内板(左写真)があり、日本時代修復の部分が見えている(中央写真)。出口をコンクリートで補修したトンネル上部に長方形に縁どられた額状部があり、「(上段)第一号隧道」、「(下段)昭和三年十一月竣工」の殆ど損傷の無い流麗な文字が刻まれている。昭和3年は1928年なので、清代開鑿以来220余年後の改修と云うことになり、下掲写真のトンネルの中の丸石の精緻な石組が清代開鑿時のものとしたら驚くべき耐久性と言わざるを得ない。このトンネルは以前は電球が吊るされ入っていけたようだが、今は電線の残骸がトンネル壁面に残るだけ、しかも筆者が訪ねた時は、雨水が入り込み泥濘となっていた。(終り)
2019年09月14日
『水の古道』隆恩[土/川]−3:隆恩圳幹線・南岸沈砂地
【写真説明】左写真は、濁水渓南岸取水口から隆恩圳幹線に導水された後、その文字通り濁水が先ず通過する沈砂地はだだっ広い退屈な公園になっている。その公園の西端脇に福興宮と云う土地公があり、そこに隆恩圳の南圳と北圳への分岐点がある。中央写真は土地公敷地内から隆恩圳幹線を撮影、右写真は幹線が南圳(同写真右側水路)と北圳(同写真左側水路)へ分岐する様。但し、水門自体が日本時代のものか?は疑問。
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2019年09月21日
『水の古道』隆恩[土/川]−4:濁水橋
【写真説明】左・中央写真は日本時代架橋の「濁水橋」の北岸(右岸)側に、獅頭山を背に起立する橋柱遺構。集集攔河堰沿いに集集橋を介した省道3号丙線脇にあり、今は歴史遺産として公園仕立てになっている。南岸(左岸)側橋柱は撤去されており、「吊橋頭」と云う地名だけが残る。右写真は橋柱上部に刻まれた銘。竣功年月も「濁水橋」と同じ面に刻まれていたが、今は殆ど判読不能な状態迄に破壊されている。下掲写真は、南岸吊橋頭に設けられた展望台から橋柱(同写真中央部に微かに写る)を含む北岸を望んだ。この展望台、集集攔河堰と濁水渓、加えて集集大山を始めとする日月潭を取り巻く山並みの絶好の眺望台だが、今は訪れる人も殆どない。そもそも展望台入口すら判り難くなっている。尚、獅頭山は吊橋遺構附近から700段近くの階段が設営されており頂上迄登れるが、今回筆者は遠慮した。
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2019年09月28日
『水の古道』隆恩[土/川]−5:「永済義渡碑記」
【写真説明】左写真は南投県名間郷濁水村福興宮にある「永濟義渡碑記」、中央写真は同県竹山鎮社寮里紫南宮にある同じく「永濟義渡碑記」、どちらも光緒5年(1879年)の銘を持ち、濁水渓北岸(右岸=福興宮)と南岸(左岸=紫南宮)間の義渡設営の顛末を記してある。碑文は殆ど同じであり、双つ乍ら国定古蹟である。前回投稿記事で述べた日本人に依る濁水橋竣工(昭和9年・1934年)を以て永済義渡は約四十年の役目を終える。右写真は、社寮紫南宮本堂前の賑わい。
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