2017年01月07日

磯崎越嶺古道−1

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【写真説明】花蓮県豊浜郷磯崎村点景。磯を地名にいただく限り、海岸である。「ji ci」は「磯崎」の北京語台湾アルファベット表記。他方、大陸式ピンインは「ji qi」。日本時代からの地名だろうと踏んでいたが、どうも戦後の改名である。日本時代は「加路蘭」、現代ローマ字表記はKaluluwan(カルルワン)、今は加魯湾等の漢音表記が充てられている。永らくアミ族とされていたが、2007年1月17日に、第十三番目の台湾原住民族「サキザヤ族(Sakizaya)」として台湾政府に認定された。総人口五千人から一万人と謂われる。磯崎越嶺古道の東側起点とされるが、少なくとも筆者が現地を眺め廻した処、それらしき標識に遭遇出来ず。
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2017年01月14日

磯崎越嶺古道−2

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【写真説明】花蓮県豊浜郷磯崎村点景、其の二。省道11号線東側、磯崎海岸沿いに廃校になった磯崎国民小学校が観光客に開放されている。と云うより地元民の憩いの場という性格が強そうだ。サキザヤ族の色使いに触れられるので、色使いが鮮やかなものを掲載した。廃墟(と言っても、天気さえ良ければ眩しく保存されている)の中でも小学校の廃校址は何故か懐かしさが込み上げて来る。子供達の歓声が空気の中に溶け込んでいるような塩梅だ。上掲中央写真には「加路蘭」と「サキザヤ」のローマ字表記が見える。下掲写真は、「サキザヤ」の現代漢音訳だが、「ヤ」の部分が何故か削られている。(続く)

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2017年01月21日

磯崎越嶺古道−3

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【写真説明】前述したように、現地に磯崎越嶺古道を示す一切の表示無し。唯一の手掛かりが『台湾的古道』中に掲載された川と山の写る写真一葉(上掲右写真)。省道11号線から西側、海岸山脈に向かい入り込む農道、産業道路との分岐点を丁寧に辿る。省道11号線を北進、11号橋を渡る場所に農道入口があり(上掲写真左)、その袂に「加路蘭渓」のモニュメントが草に覆われていた(上掲中央写真)。同写真最奥の稜線が越えなければならない海岸山脈だ。この農道を海岸山脈側に入り込むと、後湖水月なる分譲別荘地(下掲写真)になっており、恐らくは磯崎越嶺古道東段たるこの農道は、市販地図で見る限りは更に海岸山脈に入り込むようになっているにも拘わらず、この摩訶不思議な別荘地で行き止まりになっていた。磯崎越嶺古道踏査の初動はそこで諦めた。(続く)

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2017年01月28日

磯崎越嶺古道−4

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【写真説明】左写真は太巴塱(日本時代はタバロン、又はタパロン、以下タバロン)国民小学校の校門、省道11号甲線の北側、富田橋の袂に位置する。旧北富国民小学校で、台湾原住民族正名運動の結果、改称した。この校門の左右どちらかだったか忘れたが、恐らくは富田橋を見渡せる場所に小屋掛け(中央写真)し、アミ族像(下掲右写真)と一基の記念碑(上掲右・下掲左写真)が納まってる。架橋とは富田橋のことを指しているのだと思う。赤いペンキは元々の記念碑の刻字をなぞったのか?刻字部を削り出して新たに刻字したのか?字体が余りにも稚拙なので、後者ではないかと疑っている。恐らく富田橋を渡った向こう岸は花蓮県光復郷の行政中心地光復で、アミ族馬太鞍(マタアン)社の地とされるので、タバロン、マタアン社両社の和解と云う意味の「協力」と云う意味であろう。同記念碑の裏は、こちらは達筆で「自力更生(左)」、「為萬代不易(中)」等の刻字が並ぶが、記念碑表面との関係が不明、いずれにしても、台湾昭和時代からの遺留品である。
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2017年02月04日

磯崎越嶺古道−5

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【写真説明】市販地図帳には富田付近に「アミ文化発祥紀念碑」の表記があったので、それを目指した。車道の先に大きな門が出て来たが、その最上部に掛かった「太巴塱引霊祭祖儀場」、つまり祖霊祭儀場の看板を見るに及び、その門を潜ることが躊躇されたが、小走りで入場し写真を数枚取り即座に退場してきた。同場に立つ一基の記念碑には「阿美族祖先文化発祥聖地/ ○○遺址紀念碑」と刻まれているが、「遺址」の上側、並びに左側の署名部分の一部が故意に削り取られているので、ますます尻込みしてしまいそうな塩梅である。同碑から判ることは、当地が考古学的なアミ族発祥地であると同時に、アミ族の旧社の一つ、SakSakayの跡地であることだ。この後、同じタバロン社内で写真撮影が憚られる二つの聖なる物に遭遇する。(続く)
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2017年02月11日

磯崎越嶺古道−6

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【写真説明】左写真は花蓮県光復郷北富村富田にあり通称「富田納骨碑」と呼ばれる納骨碑入口。プレートのローマ字表記は花蓮県観光局の公式サイト内では「Kakita^an」とか「Kakita’an」とか表記されている。タバロン社内で祭祀を司っていた家系名だそうだ。その下の篆書体は筆者は読めないが、恐らく納骨碑と書いてあるはず。中央写真は小屋掛けされた納骨碑、右写真は碑正面の刻字。後の面の撮影は憚られたので無い。
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2017年02月18日

磯崎越嶺古道−7

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【写真説明】今回紹介するのも予期せずに出食わした日本時代の遺物である。アミ族文化発祥紀念碑の在処を探している際、富田市街地東側の車道兼観光道(下掲写真:花蓮県道193号、嘗ての磯崎越嶺古道の一部のハズ)を走っていると、何の変哲も無い小さな湖に出た。その名前は何処かに標示されてはいたかと思うが、記憶に無い。手元の市販地図には、「浚哪水庫」と「安富水庫」が並んでいるが、その畔まで至り日本時代の紀念碑に遭遇したのは、前者である。ネットで調べると「俊哪池」の方が一般的に使われている呼称のようで、ウィキペディアにも独立した項目で紹介がある。アミ語のSenaの漢音訳で、元々は日本時代の最晩年に建設した貯水池である。紀念碑の頭部は当時のものでは無さそうだが、基部はそのままで、当時の碑文が読める上に、碑文の一部は新しいプレートを嵌め込み紀念碑の由来が判るよう便宜が図られている。日本時代、富田は鳳林郡に属していたことが判る。『水の古道』に組み込んでも良かった投稿記事になる。(続く)

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