2016年03月05日
『水の古道』八堡[土/川]−1
【写真説明】八堡[土/川]は基本的には、彰化・雲林両県の県境を形成する濁水渓から水を引き込み、彰化県最南部の灌漑に供されてきた水路である。地図を眺めると、現在、構造的には、八堡[土/川]引水道、八堡[土/川]、八堡一[土/川]、八堡二[土/川]から成り、後者三[土/川の分岐点(と水利専門用語では言わないはず)は、台湾鉄道集集線源泉駅付近、彰化県道152線沿いにある彰化県農田水利会ビル前である。同[土/川の見学をするなら、素人向けには適当な地点だと思う。他方、引水道を通じ引き込まれた水が八堡[土/川]に配水される場所は、水路・水門の集合体で、筆者を含む一般人には単にコンクリートの塊の間を文字通り濁水が滔々と流れているだけにしか見えない(左写真)が、そんな中に、日本時代建造水門(正式には、右写真に見える「取入口制排水門」か?)と思われるものと、同じく日本時代建立の記念碑らしきもの(右写真、中華民国21年は昭和7年)があった。
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2016年03月12日
『水の古道』八堡[土/川]−2
【写真説明】前回記事で八堡[土/川]、八堡一[土/川]、八堡二[土/川]の分岐点は彰化県農田水利会ビル前にあると書いたが、日本時代の同水利組合を襲ったものだ。同構内のユニークな点は、日本時代、大正8年(1919年)に建立、その後民国64年(1975年)に新装した「林先生廟」を内包している事である。林先生に関しては本文記事参照。実際、この廟が主役で、構内には他に八堡[土/川]に因む事物が配されている。左写真は水利会入口の門牌、水利会では無く、林先生廟なのだ。その廟は同写真左奥に写る。中央写真は同廟正面、廟に掛かる「林先生廟」の額は日本時代のもの。右写真は廟正面を背にし左手にある、八堡[土/川]源頭碑、何時の時代の物かは判らず。何故ここが源頭か?源頭は濁水渓のはずでは?という具合に皆目見当がつかなかったが、地図を見て、確かに八堡[土/川]の西端になるだけではなく、現在の八堡一[土/川]こそが、実は元々の八堡[土/川]と云う解説を目にし合点が言った。
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2016年03月19日
『水の古道』八堡[土/川]−3
【写真説明】本ブログ左メニュー『古道俯瞰図』に八堡[土/川]概念図を掲載した。これで同古[土/川]の在処が少なからずイメージ出来ると思う。左写真は、彰化県道152号線を隔てて、林先生廟・彰化農田水利会真正面にある八堡[土/川]、八堡一[土/川]、八堡二[土/川]の分岐点の取水口の様子。八堡一、二[土/川]の取水口が結合している。中央写真は、一[土/川]、右写真は、二[土/川]の各々の取水口。両写真の奥に見えている水路は、八堡[土/川]。台湾有数の古[土/川]と雖も、今は一般人には普通の水門と水路である。(続く)
2016年03月26日
『水の古道』八堡[土/川]−4
前回掲載した写真をあくまで単なる記録として撮影し終わった所で、面白い物を見付けた。八堡二[土/川]取水口正面、彰化県道152線上に隆興橋と云う一見何の変哲も無い短い橋が架かる。四本の橋柱の内、一本には鉄製のオレンジ色に塗られた意匠でカバーされており(左写真)、単なる観光用意匠かと気にも留め無かった。この橋柱と同じ側の反対の橋柱を見ると、「中華民国十三年一月竣工」とプレートが填め込まれていた(中央写真、同写真奥に林先生廟入口が写る)。民国13年とは大正13年である。試しにその何の特徴もありそうに無い橋の下を覗いて見て驚いた。日本時代建造の橋台がそのまま使われている!(右写真)つまり、観光用意匠かと思しき鉄製カバーは橋柱の崩落を防ぐ為の保護が主たる目的ではないのか!?(続く)
2016年04月02日
『水の古道』八堡[土/川]−5
【写真説明】中央写真は、彰化県道152線上に出ている八二彎古道の標示板(左写真)に従い、八卦山脈南端から取り付き丘陵上に至るべく北進、大園巷を横断する橋上から見た八堡一[土/川]。右写真は、二水市街地の中を走る八堡二[土/川]。古[土/川]の佇まいを色濃く残す。台湾鉄道二水駅から光文路を南下、渓邊巷と交わる地点で撮影。
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