【写真説明】浸水営古道の西側起点、屏東県枋寮の海岸に小さな公園があり、その中に土盛が作られ円盤の石碑が埋め込まれている。碑の真ん中に「乃木希典」の名が見える。台湾海峡に臨む同じ海岸線、現在の枋寮国民小学校付近に、嘗ては「故乃木将軍上陸記念碑」があった。戦後四十四年後に作られたこの公園は上陸記念碑を代替したことになるが、私が訪れた時は公園名を記したプレートは引き剥がされていた。
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2006年12月01日
2006年12月08日
浸水営古道−2
【写真説明】屏東枋寮郷新開村には浸水営古道の西側最下段入口がある。その付近の農家の中に清代の軍駐屯所、[土>嵌]頭営盤(かんとうえい)が残る。但し、現場に一切の案内板が無いので一般のハイカーが探し出すのは難しい。村の中に天台宮という村の規模には不釣合いな大きな廟があるがその廟隣の農家の敷地内にあるのを、古道入口の案内板上の一枚の写真を元にやっと探し出した。営盤は今はこの農家の倉の礎石になっている。清代、日本時代、戦後の三代が順番に重なっているのが観察できる非常に珍しいものだ。写真右が残存している営盤の一部、写真左はその拡大である。一番下の粗い石積みが営盤、その上の整然としたレンガ様のものが日本時代のもの、倉は戦後建てられたものだそうだ。
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2006年12月15日
浸水営古道−3
【写真説明】浸水営古道の最高点、嘗ての高雄州と台東廳との境界付近。撮影者の背中が高雄州側、ここから台東方面へ急な下り坂となる。境界付近には恐らく招待所の類の建物があったのではないかと思わせる平坦地がある。この写真は午後撮影されたものだが既に霧が上がってきて湿っぽく薄暗い。ここら一帯の気候の特徴である。ここでは道路幅が非常に広く三メートルぐらいある。道路右脇に当時のままの路側石が残る。
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2006年12月22日
浸水営古道−4
【写真説明】写真左は浸水営古道の東側起点、台東県大武、太平洋に面する。写真の街並は大武渓の南岸旧大武、今は街の中心は北岸に移っている。以前は浸水営古道を東側から辿る際は大武駅から歩いていた。古道は大武渓沿いに遡行、右写真の加羅板部落を経て、写真右にある丸い山の右側を巻きながらチアチアカトアン渓を数キロ遡ると今年(2006年)初めに完成した吊橋が掛かる。そこが現在の古道入口である。今はこの古道入口まで車の乗り入れが可能だ。加羅板部落へ到る写真の道路は大武渓の河床、一月に撮影、この後梅雨を経て増水すれば通れなくなると思われる。
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2006年12月28日
浸水営古道−5
【写真説明】左写真は帰化門社のパイワン族頭目の石板屋遺構の一部。大漢山林道脇に案内板が据えられそのすぐ傍にこの遺構があるので判り易いが、一般のハイカーが観察できるのはこの遺構だけである。同写真右を入っていく道路があり、その左右に藪に覆われてはいるが平坦地と判る場所がある。学校、駐在所、原住民住居があった場所だが、藪が高く深く分け入っていく勇気はない。大漢山林道沿いにある原住民族部落の遺構をこのように容易に観察できる場所はここだけである。右写真は、旧力里社(リキリキ社)と説明されることもある大漢山林道上にいまだに残る小村落の一軒。実際リキリキ社の中心(頭目の住んでいた区域)はこの小村落がある場所より標高の低くかなり林道から外れた所にあるが、私自身はいまだに辿り付けていない。
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2007年01月05日
浸水営古道−6
【写真説明】六儀社営盤。林務局の案内板に拠ると兵士数30人の駐屯地。大漢山林道がこの営盤を貫く形で通っており、道路脇の両側(大漢山方向に左端の谷側と右端の山側:写真は山側に残る営盤)の藪の中に何の変哲もない石積みが残る。この営盤を谷側へ少し下るとオリジナルの古道跡が出現する。今は全く歩かれていないが、旧リキリキ社へ通じる道である。リキリキ社跡は、過去何度か別なルートから入り込もうとしたが果たせず、六儀社営盤を調べているうちに期せずしてこのパイワン族の旧村へ辿る手掛かりが掴めた。
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2007年01月12日
浸水営古道−7
【写真説明】左写真は出水坡神社跡と思われる石積み。出水坡は国家歩道に指定されている現在の浸水営古道のほぼ中間点、本古道中最大規模の日本時代の遺蹟が残る。「出水坡神社跡」の道標は当地に一基あるが、それに続く道標が無く、山の中を歩き廻り私が勝手に特定したので本当に神社跡かは自信が無い。写真下に映る石は階段の一部、写真中央を横切る石積みは祠を取り巻いていたもの、写真上の樹木下の石が祠の台に当たると思われる。祠を支えていた石積みは樹の根が跨り殆ど崩壊している。右写真は出水坡駐在所跡。この周辺には大小様々な石積みが残る。その一部は清軍の出水坡営盤のはずだが、残念ながら素人では判断出来ない。
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2007年01月23日
浸水営古道−8
【写真説明】1月であったが、浸水営古道の沿線には何種類もの蘭が花を付けていた。その中から四種類を選んだ。三種かもしれない。私の父は蘭には詳しく自身で山に分け入りよく採ってきては家の庭に植えていた。今では違法行為であるが、私もそのお供に与った。もう三十年以上も前の話である。それらの蘭は今でも父の庭で花を咲かせる。それ故、蘭には愛着があるが、父のように蘭を耽溺する程までには到らなかった。従って、ここに掲載した三種、乃至は四種の蘭の名前は判らない。
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2007年01月30日
浸水営古道−9
【写真説明】私が浸水営古道を東側から辿ったのは2006年1月、丁度この日新しい吊橋がチアチアカトアン渓に掛かった(左写真)。現在の古道への実質的な入口であり、今はここまで車の乗り入れが可能になっている。この新しい橋の対岸に日本時代の橋桁が残っており(写真右)、逆光で読みにくいが左側橋桁に「大正十五年三月竣効」(1926年)とある。右側の橋桁には恐らく「姑仔崙橋」の銘があったと思われるが、判読出来ない。
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2007年02月03日
浸水営古道−10
【写真説明】左写真は、屏東県枋寮郷水底寮の街中にある、浸水営越嶺古道の西側起点、地元の人々に「三叢榕」と呼ばれる土地廟がある。「榕」はガジュマルの樹、写真で見る通り、文字通り三株のカジュマルという意味だと思われる。同写真の橋の袂に屋台が写っておりその下の部分が右写真である。その右写真右側の石に「嶺路頭」と刻まれており古道の起点であること示している。「越嶺道起点」ぐらいの意味だろう。同時に「行路平安符咒」(「咒」はおまじないの意味)の文字も刻まれているらしいが、その左側の石上の文字は明らかに別の文字、土地廟の御神体と思われ、確認出来なかった。このように土地廟と一緒になっているのは、道の交差路(現在は三叉路)にあることから石敢當(いしがんどう)的な魔除けの機能を果たしてきたのだろう。
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2007年02月09日
浸水営古道−11
【写真説明】左写真は屏東県枋寮郷玉泉村に残る「聖蹟亭」。玉泉村は嘗ては石頭営と呼ばれていたように、越嶺道西側最初の営設営地点である。聖蹟亭は「惜字亭」とも云われ儒教下の文字供養塔とも呼べるもので、書籍等文字の書かれたものを燃やす炉である。清朝の開山撫蕃時に台湾の各所に作られその多くが今では国家史蹟に指定されているように、優美な原形を保つ。この玉泉村に残るのもその一つ、国家三級古蹟で、嘗て清軍により石頭営が設営された付近にある。周囲を公園にして保存されている。清軍は原住民教化の為にこの地に「蕃学堂」を設置した。開山撫蕃下に於ける越嶺道起点付近の蕃学堂設置、聖蹟亭建立の例は台湾の他地域にもある。政策上は、後の総督府に依る蕃童教育所に連なる原形と言えるかもしれない。
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2007年02月17日
浸水営古道−12
【写真説明】嘗ての高雄州と台東廳との境界を過ぎると台東側へ一気に下りとなり、約15分程で踊り場のような平坦地に行き着く。そこがこの古道名の謂れとなった浸水営である。左写真がそれで、同写真右側に営盤、並びに駐在所跡がある。西側古道入口からは約一時間程度の距離になる。ここまで古道散策を楽しみ西側入口に引き返せば、立派な浸水営古道探訪だ。ゆっくり歩きながら休憩も入れて三時間も掛からずに往復出来る。右写真は、嘗ての駐在所入口付近から駐在所構内を覗いたもの。写真ではその広さを実感できないが、駐在所はこの入口の左右に広がり、その幅約7、80メートル、奥行き50メートルはあろうかと思われる。その周囲をぐるりと囲む石垣の多くの部分が残っている。実際この警備道上で最大規模の駐在所であり、当時の駐在所の殆どが平屋であったが、この駐在所は少なくとも二階建てであったことが当時の写真を見ると判る。今は草と樹木が高く生い茂り視界が利かないが、当時の太平洋側への眺望は相当良かったことが想像される。
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2007年02月23日
浸水営古道−13
【写真説明】浸水営古道のブログは12回で一旦完結させる予定にしていたが、もうニ三追加することにした。左写真は先のブログ「浸水営古道−5」で紹介した帰化門社(日本時代:キナリマン社)に於けるパイワン族頭目の住居跡全容。キナリマン社跡地は最近になり膨大な藪が払われ日本時代は四百人強が居住していた部落の一部が姿を現した。浸水営古道−5の写真を撮影した2006年1月時点では、藪の一部から僅かに覗いていたこのパイワン族頭目の住居の壁の一部分(左写真の住居左端)のみが、嘗てはこの地域に部落が存在したことを確認できる唯一の便(よすが)であったが、今はこの頭目の住居跡だけではなく、駐在所、学校(=蕃童教育所、戦後は国民小学校)まで併せ持った旧部落の一部領域を観察できる。中央、並びに右写真はその一例。どういう意図の基に誰が藪を取り除いたのかは判らない。調査・研究の為だけであれば、夏を一回経てしまえば、また藪に復する。舗装された自動車道の脇なので今なら誰でも簡便に立ち入り可能だ。
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2007年03月03日
浸水営古道−14
【写真説明】左写真は現在の屏東県春日郷古華村入口。日本時代のコワバル社が源(みなもと)。但し、春日郷の他のパイワン族村落と同様、平地に移遷してきた後の集落である。枋寮を過ぎ省道1号線を少しだけ南に下るとこの1号線と交差する屏東県郷道146号線があり、そこを東側に入ると古華村入口である。左写真右側の道路がそれで、そのままマンゴーの畑を両側に見ながら平坦地を山間(やまあい)に向かって数キロ進むと「旧古華村」に着く。それが中央写真で、この案内板のある場所から146号線は士文村(日本時代のスボン社、又は率芒社)に向かって山を登り始める。つまり、旧古華村の一部は既に平地であり、コワバル社の当地、現代台湾風の地名の付け方では「老古華村」と呼べるものは山中深くにあるのであろうが、この案内板横に立つ地図上にある「古道」を丁寧に辿るしかなさそうだ。右写真は旧古華村内に残る教会遺構。
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2007年03月08日
浸水営古道−15
【写真説明】旧力里部落(リキリキ社)の正確な位置を割り出すのに、当時撮影された写真を参考にする方法があることに思い当り、東京大学総合研究博物館の古写真アーカイブ(左「お気に入りリンク」を参照:同博物館のHPからアーカイブに入る方法はこのブログの一番下を参照)を探してみたら出てきた。このアーカイブの台湾の部は鳥居龍蔵コレクションである。リキリキ社と説明のある写真は三枚(写真番号7077、7054、7465)しかないが、同7075「帰化門社の人々」に始まる連続した写真は少なくとも同7083まではリキリキ社とその周辺で撮影されたと想像出来る。当時、原住民族村落で撮られた写真はもしバックに山の稜線が写っていれば撮影場所を特定出来るケースが非常に多いことをこれまでの経験で知った。殆どの場合、開発の手が入り山容が変わったということがないからだ。
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2007年03月15日
浸水営古道−16
【写真説明】左写真は屏東県東港鎮、大鵬湾国家風景区にある「二次大戦軍事遺蹟」内の「本部連」と名付けられた建物。案内板に拠ると「日本海軍第六十一航空場東廠支場本部」とあり、戦後は台湾空軍参謀大学等に利用された説明されている。戦後かなり改築されてはいるとは思う。私が訪れた時はこの建物の付近で数人が水彩スケッチを楽しんでいた。右写真は同遺蹟内の広大なエプロン。同写真の右側は大鵬湾に面しており、嘗て日本海軍の水上艇が繋留されていた。写真の水上艇を模した建造物は、この地が大鵬湾国家風景区に接収された後に作られたアトラクション用のもの。この嘗てのエプロンは今は駐車場兼イベント用の広場である。
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2008年07月26日
浸水営古道−17:帰崇段−1
【写真説明】浸水営古道西段最下段入口の写真二枚。左側写真は2003年3月の撮影。今はこの指導標は無くなり、代わりに中央写真(2008年4月)のものに取って換わられた。左側写真のものが一代目、中央写真の下側の案内板が二代目、その後ろの立派なものが三代目というわけである。右側写真はこの最下段の一風景。
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2008年08月02日
浸水営古道−18:帰崇段−2
【写真説明】左写真は大漢林道(屏東県道198号線)6キロ地点にある検問所。ここから先の林道を辿る為には本来はここで入山証を取得しなければならないが、今は検問所自体が閉まっていることが多い。二枚目写真は、旧大漢林道(旧県道198号線)、林道と古道が最初に出会う地点から真っ直ぐに検問所に至る道路で鳥居龍蔵、森丑之助も歩いた道である。真ん中のコンクリートが抜かれているのはコスト削減の為か?日本では見掛けないと思う。三枚目写真は同林道7キロ地点にある貯水槽と落書き群。「浸水営古道」と書かれ矢印が書かれているが、矢印の意味は林道をそのまま進め、つまり大漢山直下に入口を持つ古道東段に至る方向を示唆している。三角点標示もあり、嵌頭窩山三角点を示している。右写真は、最近新たに見付けた指導標。春日郷公所・帰崇村弁公処・帰崇社区発展協会の三者に依るものである。古道西段の最下段に対し「帰崇段」という呼び方があることを初めて知った。
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