2006年09月16日

霞喀羅古道(石鹿古道)−1

Kodou-12.JPG【写真説明】新竹県五峰郷清泉温泉から石鹿林道を辿り西側古道入り口三キロ前に立つ道標。初めて訪ねた2004年5月当時、写真に見るように登山道手前数キロと登山口に新しい道標、案内板の整備がやっと終わろうとしていた。問題は、このような道標に辿り着くまで省道、県道上に殆ど古道への表示が無いことである。高雄市の観光関連の道標も一新され出したのもここ数年であることを考えると、予算の関係であろう。清泉温泉で県道122号線から石鹿林道への入り口を数人に聞いたがなかなか要領を得る回答戻って来ない。「古道の入り口はどこか?」と聞いてもである。但し、古道上の道標、案内板は立派である。
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2006年09月23日

霞喀羅古道(石鹿古道)−2

Kodou-13.JPG【写真説明】石鹿側から入り最初に出会う田村台駐在所。写真で見るように、戦後ヒノキが植林されている。駐在所の石垣は見事に残存しており、植林はされてはいても当時の駐在所の範囲は平地のまま残されている。田村台駐在所の場合、建造物が嘗て存在したであろう平地の広さは誰でもがそれと認識出来るが、この古道上のそれ以外の駐在所跡は注意深く観察しないと嘗て建造物が存在したことを想像するのは難しい。建造物そのものが残存している例が少ないからである。
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2006年09月30日

霞喀羅古道(石鹿古道)−3

Kodou-14.JPG【写真説明】松下駐在所跡と思われる平坦地で休憩するハイカー。「思われる」と書いたのは、表示がないので私が勝手に特定したものである。林務局が設置した古道入口の案内板に松下駐在所の表記は無い。これまで書物、山行記録等色々見てきたが、駐在所の位置と当時の名前に関し最も正確な情報は、上河文化製作、林務局出版の「国家歩道系統導覧図」(2003年11月出版)であろう。但し、このシリーズ、僅か四本の歩道しかカバー、販売されていない。私がこの古道を歩いた時には残念ながら持ち合わせておらず、後追いで色々想像するしかなかった。
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2006年10月05日

霞喀羅古道(石鹿古道)−4

Kodou-15.JPG【写真説明】全長24キロある現在の古道のほぼ中間点に位置する白石(サカヤチン)駐在所跡。「白石」の名は戦後付けられたものではないかと思う。つまり、戦後も暫くの間駐在所として機能していたということだ。このように、当時の警備道上の駐在所は戦後すべてがいきなり廃棄されたのではなく、幾つかはそのまま引き継がれたようだ。但し、現在の古道上で戦後もそのまま引き継がれたのはこの白石駐在所だけだと思われる。写真の建物は戦後建て替えられたものだが、日本時代の風貌をよく伝えている。又、この古道上のかなりの部分で古い電柱と電線が残っており、これらも戦後の物とは云え、往時を偲ばせる便(よすが)となる。尚、建物後方には嘗て砲台が置かれていた。
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2006年10月13日

霞喀羅古道(石鹿古道)−5

Kodou-16.JPG【写真説明】サカヤチン渓に架かる白石吊橋、日本時代はこの渓谷と同じ名前が付けられていたかもしれない。橋長145メートル、橋と渓谷の落差は90メートル、大正十年(1921年)の架設。写真ではなかなかこの高度差を表現出来ない。橋桁は日本時代のものをそのまま使い続けているようだが、橋自体は何回も張り直してある。但し、日本時代、各地の警備道上に掛けられた当時の写真を見る限りでは、工法は変わっていないようだ。
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2006年10月21日

霞喀羅古道(石鹿古道)−6

Kodou-17.JPG【写真説明】石鹿駐在所跡。白石駐在所と同じく戦後建て直されそのまま暫く駐在所として機能していた。この遺構は現在の歩道上にあるのではなく、県道122号線沿いの清泉温泉(新竹県五峰郷桃山村:日本時代の井上温泉)から東側に延びる石鹿林道沿いに残っている。従って、石鹿林道も嘗ての警備道、古道そのものである。全長約15キロのこの林道は普通車でも歩道入り口まで容易に乗り入れられる。この廃棄された駐在所の庭では誰かがアヒルを飼っていた。
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2006年10月26日

霞喀羅古道−7:内湾

Kodou-18.JPG【写真説明】縦貫鉄路内湾支線の終点、内湾駅の山側に隣接した新竹県警察局横山分局内湾派出所、内湾の町を見下ろすように建つ。昭和13年(1938年)創建。最初から駐在所として建てられたのではなく、元々は「南河部落振興会」であった。いずれにしても現役の木造の警察関連建築としては台湾最古の物であろう。これだけ見事に保存され現役に供されている日本時代の木造建築物は台湾にはそう多くない。加えて、派出所の敷地内には観光客用にパラソル付きのテーブルが置かれ気楽に寛げるし、これも観光客用に外にトイレがあるが、このトイレのコンクリートの土台は日本時代から引き継がれてきたようだ。警察という厳しさからは程遠いユニークな派出所である。
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2006年11月05日

霞喀羅古道−8:尖石

Kodou-19.JPG【写真説明】台湾最奥と云われたタイヤル族の村々に通ずる道路がまずここ宇老(ウラオ)派出所(写真左上)で交差する。週末は斯馬庫斯、鎮西堡、霞喀羅古道、李棟山等へ出掛けた行楽客の車で混雑する。斯馬庫斯は嘗て「黒色部落」の最奥と言われた部落、鎮西堡は台湾最大規模の巨木群(紅檜)の原生林を持つ。李棟山は清朝の開山撫蕃下で李棟将軍が砦(とりで)を築きその後を日本軍が襲い再建、タイヤル族鎮圧の為の大規模な砲台が今に残る。写っていないが、写真左奥には原住民の経営する食堂並びに季節の野菜、果物の出店で賑わっている。
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2006年11月09日

霞喀羅古道−9:李棟山

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【写真説明】台湾総督府が李棟山(標高1,913メートル)頂上に大正2年(1913年)に築いたタイヤル族討伐の為の大規模な要塞の正面の門。今では李棟山古堡と呼ばれている。写真左が外側から、写真内側は要塞内部から撮影した入口の門である。内部は五十メートル四方はあり、高さ2メートル強、厚さ約60センチにも及ぶコンクリート製の壁で囲まれている。当時のコンクリート技術の粋を集めたという。但し、「コンクリート」と単純に呼んでいいのかは自信がない。鉄筋も用いられたそうだが、要塞壁の中身はレンガ積みをコンクリートで補強してある。門上部には嘗ては第五代総督佐久間左馬太の筆になる「慎守其一」の扁額が掛かっていた跡が残る(写真左上部)。元々は清朝の開山撫蕃下に於いて李棟将軍が同地に砦を建設したのが始まりである。台湾各地に残る総督府の理蕃関連の遺蹟中、最大規模のものである。
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2006年11月13日

霞喀羅古道−10:司馬庫斯部落

Kodou-22.JPG【写真説明】嘗ては、最後の秘境、黒色部落等と形容されていた司馬庫斯部落の全景。現在もし週末・祭日にこの村を訪ねたとしたら当時の面影を見出すのは難しい。「黒色部落」の名は、山奥故日照時間が短く常時暗かった為だという説明を見たことがあるが、そう呼ばれ始めたのは、古蒙仁が1970年代、「黒色(的)部落」を出版した後ではないかと想像する。大概の観光客は司馬庫斯古道を神木(檜の巨木群)まで辿る。この村の最大の観光資源である。
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2006年11月21日

霞喀羅古道−11:北坑渓古道

Kodou-23.JPG【写真説明】古道とは全く関係の無い一片。苗栗県泰安郷二本松に至る目的で、台中県東勢の町を過ぎ東勢林場に到る自動車道の道端で見付けた「善福橋」架橋記念碑である。その橋は写真後方に写っているがこれは掛け直したもので、それすら今は廃棄されており記念碑だけが佇む。碑には橋建立の日付けも由来も無く寄進者の名前のみが記されている。寄進された金額が「円」表示になっいるので日本時代のものだと考えられる。水利事業に関わるこのような日本時代の遺物は丁寧に探せば台湾にはまだかなり残っていると思う。
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2006年11月26日

霞喀羅古道−12:横龍古道

Kodou-24.JPG【写真説明】苗栗市から快速公路72号線を東に走ると終点は獅潭郷[シ/文]水、省道3号線に行き当たる。これを南側に乗り換えるとすぐに大湖郷に入り、苺畑が3号線の両側に広がる。大湖は台湾における有数の苺の里である。街中には日本時代の家屋がいまだに多く残る。写真は省道沿いで見掛けた日本家屋、二階建ての大振りの家屋であるが日本時代から個人の邸宅だという説明を受けた。
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2007年06月01日

霞喀羅古道−13:清泉温泉(旧井上温泉)

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【写真説明】日本時代の井上温泉である新竹県五峰郷桃山村清泉温泉、霞喀羅古道西側の入口である。ここから現在の古道入口までは林道を通常、車で15キロ程辿る。左写真は、その林道入口から僅かばかり上がった場所から撮影した清泉温泉の全景。手前の橋は清泉大橋、写真中段の吊橋(清泉一号吊橋)の右端が日本時代から続く清泉温泉、左端が清泉派出所、嘗ての井上駐在所である。林道は最初の入口からいきなり高度を上げるが崩壊が激しく、同写真下段に見るようにやっと応急処置を施したような有様だった。小型マイクロバス程度の車両でも通行は難しくなっている。撮影地点は丁度嘗て張学良が蟄居していた場所(実は、この地は現時点でも意味不明の公園にはなっている)の上部に当る。
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