2011年08月13日

合歓山越嶺古道−1

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【写真説明】奇莱主山南峰(標高3,358メートル、台湾百岳40号)から中部横貫公路(略称「中横」)霧社支線、省道14号甲線、を望む。写真最右翼の最高点が合歓山(ごうかんさん)東峰(同3,417メートル、34号)、その左側最高点が合歓山主峰(同3,421メートル、33号)、それら二つの峰の鞍部が台湾自動車道の最高点、武嶺、嘗ての佐久間峠である。写真に写る中横は、ほぼ日本時代の「合歓越道路」を踏襲した部分。写真最後方の稜線は雪山(次高山、3,886メートル、2号)を盟主とする雪山山脈。

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2011年08月20日

合歓山越嶺古道−2

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【写真説明】左写真は台湾自動車道最高点を示す「台湾公路最高点」碑、今は武嶺と呼ばれる地点。中央写真は、その碑の道路を隔てて向かい側にある駐車場で日の出に歓声を上げる遊楽客。同写真右上に写る白い建築物が立つ場所が、合歓山主峰(標高3,417メートル)である。左写真は、北合歓山(標高3,422メートル)より、合歓山主峰(写真右最高点)と東峰(同3,421メートル、写真中央最高点)、その鞍部である武嶺(同3,275メートル)方面を望む。

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2011年08月27日

合歓山越嶺古道−3

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【写真説明】「台湾のセブン・イレブンは増殖・進化する」と言いたくなる程に、数が多く、又、特色を競い合う。店舗面積は広くなり、店舗の意匠に拘る。左写真は中横沿い清境農場付近にある台湾最高所のセブンイレブン、標高2,050メートル、日本時代には見晴と呼ばれていた地域だ。中央写真は、武嶺から見下ろした昆陽冬季派出所、日本時代の合歓山駐在所を襲ったもの。中横を霧社から登ってくると初めてタロコ国家公園の境界碑に出会う場所で、まず合歓山東峰の雄姿が視界を遮る。同写真左上に写る尖峰は能高山(3,262メートル、台湾百岳61号)。右写真は関ヶ原ガソリンスタンド、台湾最高所のガソリンスタンド、標高2,374メートル。

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2011年09月03日

合歓山越嶺古道−4

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【写真説明】三枚の写真は、当時豪華な宿泊施設を擁していた旧「カラバオ」社関連。畢緑神木サービス・エリア下中横脇に入口のある産業道路を辿るとカラバオ農場管理人住居とその横にしつらえられた左写真のケーブルカーに行き当たる。この軌道は農場へ必要資材を運ぶ為の物で、一応人は運んでくれない。中央写真は谷越しはるか下に見えている旧カラバオ跡地の農場。歩けば相当な距離に思えたが、このケーブルカー上部起点横に付いている登山道を辿ること二時間程度で付いた場所が右写真のキャベツ畑。同写真左の最高点は屏風山(標高メートル3,250メートル、百岳64号)、その左側は奇莱主山北峰(同3,607メートル、百岳16号)。てっきりカラバオまで着いたと小躍りしていたが、実はこの農場は旧カラバオ上部に開かれた別農場であることに、戻り着いてから気付き非常に悔しい思いをした。つまり中央写真と右写真は異なる場所ということだ。

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2011年09月10日

合歓山越嶺古道−5

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【写真説明】日本時代に開鑿されたダム工事用道路であるサカタン歩道の三枚。左写真は中横脇に設けられた歩道入口。トンネル上部、歩道入口架上方の三漢字が「サカタン」の漢音訳。中央写真は実際の歩道の様子。岩盤が豪快に削り出されている。右写真は歩道終点近くの日本時代建設のダム(台湾中国語は「攔水壩・らんすいは」)、現役である。

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2011年09月17日

合歓山越嶺古道−6

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【写真説明】錐麓古道から見下ろしたタロコ渓谷核心部を走る中部横貫公路、標高差約500メートル。中横建設時、最難関部だった部分。

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2011年09月23日

合歓山越嶺古道−7

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【写真説明】右写真は奇莱主山北峰直下から合歓山群峰を望む。本当は明確に各峰を示したいのだが、端折る。同写真左より右に順に、合歓山東峰、合歓山主峰、合歓山西峰、石門山、北合歓山。因みに同写真下部の陰は奇莱主山北峰。合歓山「連峰」と呼んでいいのかもしれないが、両側に切れ落ちる峰を共有していないという意味で私は専ら「群峰」と呼んでいる。尚、奇莱主山北峰山頂から同方向を眺望したものは「台湾百岳」のサイトを参照の事。右写真は中横脇の玉山箭竹の群生の中に残る中横建設予定地標。既に優に五十年を経てしまった。同写真奥に僅かにピンクの紅毛杜鵑(ツツジ)が覗く。実際は春になると合歓山群峰一帯、ツツジが咲き誇る。私の技量ではとてもその美しさと広がりは表現出来ず、初めて目にした時、当時のしょぼいデジカメで数枚写したきりでその後はカメラを向けないことにしている。ツツジに対し失礼という意味である。

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2011年10月01日

合歓山越嶺古道−8

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【写真説明】「台湾八景」の選定は既に清の時代にも行われていた。又、現代版台湾八景も選定されている。但し、通常は日本時代、台湾日日新報募集・選定(1927年、昭和2年)のものが今でも定番だ。北から順に;基隆旭岡(台北市)、淡水(台北市)、八仙山(台中市)、太魯閣峽(花蓮県)、日月潭(南投県)、阿里山(嘉義県)、壽山(高雄市)、鵝蠻鼻(屏東県)。各所に日本時代に立てられた選定記念碑が残っているのかもしれないが、私がこれまで目にしたのは、鵝蠻鼻(左写真)と八仙山(右写真)のものだけ。但し、八仙山のものは、戦後同地に建て直されたものだ。

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2011年10月08日

合歓山越嶺古道−9

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【写真説明】左写真は合歓山東峰登山中に登山口方面(北)を振り返る。赤い屋根の建物は合歓山荘、日本時代の石門駐在所を襲った。同写真に写るピークは写真手前より、合歓尖山(氷河遺跡)、石門山、石門山北峰。中横は合歓山荘の右脇から続く白い線、写真奥で二つに枝分かれしているが、その右側の白い線は石門山頂上への登山道、台湾で一番短い台湾百岳登山道。石門山と石門山北峰との鞍部を中横は越えていくのだが、その鞍部は克難関と呼ばれる。元々は鬼門関、洞穴であり、その為に日本時代に石門山と名付けられたのだが、中横建設時に発破で吹き飛ばした。中央写真はその克難関横から石門山頂上へのショートカットを試みるハイカー。ここからなら頂上まで5分か?こんな場所には元々は登山道はなかったのだ。その克難関を逆側から望んだのが右写真。同写真右上に克難関を越える中横、その奥に見えている峰は合歓山東峰、左側大崩壊を呈しているのが石門山北面。

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2011年10月15日

合歓山越嶺古道−10

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【写真説明】「合歓山越嶺古道−2」で掲載した中央写真は武嶺から昆陽冬季派出所方面を望んだ写真だ。今回掲載した左写真も同地点から同方向を望んだものだが、もう少し武嶺寄りの合歓山主峰へ至る稜線斜面とそこを走る中横の様子である。掲載した写真では判然としないが、この中横の少し上に中横と平行して延びる踏み跡(今は登山道)があり、タロコ戦役時の軍用道跡である。同写真右に中横から分岐して稜線側に延びる道路が写っているが、合歓山主峰へ至る登山道。右写真は、やはり同じ斜面を合歓山主峰頂上近くの稜線から見下ろしたもので、同写真左下端のギザギザ線が中横、その中横と日の当たる斜面稜線の中間に写真上でかすかに確認出来る細い道が同軍用道である。尚、同写真左上の突き出た峰は能高山、写真右上奥に写る最後段の三つ瘤の稜線は玉山連峰。日本時代は、玉山(新高山)、雪山(次高山)、能高山を併せ「三高」と呼んでいた。

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2011年10月22日

合歓山越嶺古道−11

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【写真説明】左写真は天祥を見下ろせる中横脇に設けられた展望台「豁然亭」、その付近から実際天祥を見下ろした写真が二枚目である。豁然亭は天祥歩道と呼ばれる観光客に開放された遊歩道上部入口(出口)。その豁然亭直下に華表(門柱)が立ち、「峰路廻盤」その両脇に「竚雁」、「飛鴉」と書かれてあるが意味不明、無論、国民政府になる物。右写真は歩道の様子。

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2011年10月29日

合歓山越嶺古道−12

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【写真説明】左写真は九曲洞付近から錐麓断崖を見上げたもの。同断崖の中央部を横断する道が微かに見えているのであるが掲載した写真では判別が難しい。中央写真は同断崖をズームして撮影したもの。これだと道らしきものが見て取れる。右写真は錐麓駐在所跡付近から断崖を横断する旧警備道を望んだもの。

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2011年11月05日

合歓山越嶺古道−13

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【写真説明】錐麓古道を歩く為には事前に二種類の許可証の取得が義務付けられ、且つ、一日の入山者数が制限されている。左写真は古道東側入り口である錐麓吊橋への門。古道中には各所に二枚目写真のような指導標が設けられハイカーの便宜に供されている。本古道の性格柄、右二枚の写真のような様々な警告板が立てられている。中文+英文の表示だが、日本人にも即座にその意味が判るはずである。

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2011年11月12日

合歓山越嶺古道−14

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【写真説明】錐麓古道の東西入口は両方とも橋が目印である。左写真は東側入口である錐麓吊橋、中央写真はその吊橋越しに断崖道路が開鑿されている方面(向かって右側の岩盤上方)を望む。右写真は西側入り口である慈恩橋。

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2011年11月19日

合歓山越嶺古道−15

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【写真説明】:錐麓古道の駐在所三箇所の跡地の現況を示す写真を掲載する。左から、バタカン駐在所、断崖駐在所、錐麓駐在所。バタカン駐在所跡地の規模は広大で、今回掲載した写真以外に当時の遺構が豊富に残るが、他の二駐在所に関しては総じて写真を見ての通りである。各駐在所跡には林務局に拠り当時の間取り見取り図が案内板で紹介されている。

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2011年11月26日

合歓山越嶺古道−16

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【写真説明】いよいよ錐麓古道核心部の数葉を掲載するが、大きな写真サイズを提供出来ずに申し訳ない。代わりに本部ブログ左側メニューの『日経ギャラリー』第4回目記事を参照にして欲しい。私の素人バカチョン・デジカメの限界も然ることながら、垂直の断崖に開鑿された道路の凄まじさを表現仕切れなかったもう一つの原因は、当時私の前後にハイカーが存在しなかったことだ。古道上にそこを実際あるくハイカーが写り込んでいればいとも容易くその凄まじさが表現できたのだが。

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2011年12月03日

合歓山越嶺古道−17

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【写真説明】緑水合流歩道の4枚。同歩道は錐麓古道の西側延長部に相当する。休息施設が各々完備された緑水(西側)と合流(東側)を結ぶその総延長僅か二キロ足らずの歩道で、両側出入口が中横脇にある為、誰でも気軽に散策出来る。左一枚目は、合流入口に近い古道の様子、左二枚目は、古道途中にある「弔霊碑」、日本人警官合計四名の合同殉職慰霊碑、当時の殉職とは殆どが馘首。右側二枚は、緑水に近い側の古道の様子。右端写真は、古道と現代自動車道たる中横の関係を見事に切り取った一枚。

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2011年12月10日

合歓山越嶺古道−18

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【写真説明】錐麓古道の段には二箇所、岩盤を刳り貫いたトンネルがある。その西側入口(慈恩橋方面)に近い方のトンネル(左写真)の慈恩橋側入口脇の岩盤に地蔵菩薩が安置されている。日本時代のものだ。逆の入口(錐麓吊橋方面)の断崖側側面に日本人に拠る落書きが残っている。それが右写真だ。「落書き」と書いたが、何処でそういう単語を拾って来たか想い出せないのだが、暫くは勝手に、戦前に当地を歩いた日本人遊楽客が記念に彫り込んだものだと逞しい想像をしていた。しかし実際に彫られた「大正」と「開鑿記念」の文字を拾い出してみると、この落書きは単なる余興ではなく、この段を開鑿した際に彫られたものではないか?と思わざるを得ない。落書きではなく、私家版開鑿記念碑だという意味だ。そうすると、地蔵菩薩の安置も二つの可能性が出て来る。即ち、開鑿後この段を行き交う人々の安全を祈願したものか?開鑿中の殉職者を弔ったものか?

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2011年12月17日

合歓山越嶺古道−19(文山歩道)

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【写真説明】左写真は、嘗ての合歓越道路支線、今は文山歩道と呼ばれる段の北側出入口に掛かる吊橋、タッキリ渓の支流の一つ、トウサイ渓上に掛かり、文山温泉(旧深水温泉)を見下ろせる。中央写真はその北側入口に据えられた立ち入り禁止の警告板。同内容の警告板が同歩道南側入口にもある。右写真は緑水側から同歩道に侵入し暫く進んだ場所で見掛けた村落遺跡と思しき石垣。もしそうであれば嘗てのドヨン社のものか?

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2011年12月24日

合歓山越嶺古道−20(旧深水温泉)

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【写真説明】左写真は中横脇にある文山温泉への入口で当時は立ち入り禁止、今も実際はそうかもしれないが、湯治客は後を絶たない。中央写真は同温泉の更衣室。五年以上も使われていないので荒れていた。右写真はトウサイ渓を対岸に渡り川底の温泉に降りていく為に渡された、その名も「温泉橋」。本文記事下の写真が文山温泉全景、入浴する場所は右側である。

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2011年12月31日

合歓山越嶺古道−21(金馬隧道)

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【写真説明】【写真説明】2011年最後の古道紹介は、人口に然程膾炙していない合歓越道路の生き残り部分である。左写真と中央写真はその旧警備道への降り口の目印となる金馬トンネルと同トンネルのタロコ渓谷側口に設けられた休憩所。この休憩所の奥はテラスになっておりそこを越えて谷側に降りていくと、右写真のように細いロープが渡されており、そのまま古道へと降りれるようになっていた。本文記事下に掲載した左写真は実際の古道の様子、右写真はこの段が嘗ての警備道だったことを物語る路側石、「浸水営古道−3」や「関山越嶺古道−14」(左写真)に掲載した写真に写る敷石と同様なものである。

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2012年01月07日

合歓山越嶺古道−22(梅園竹村歩道−1)

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【写真説明】左写真は廻頭湾にある梅園竹村歩道入口のガード、ピンクの張り紙は進入禁止を警告したもので。2010年5月の撮影。約一年半後の今回はこの張り紙は剥されていたが、林務局敷設の歩道案内板にはまだ進入禁止の警告が表示されていた。右二枚は廻頭湾駐車場に立つ索道起点。ケーブルは蓮花池付近の農場への資材運搬用である。同時に農場での作物を降ろして来る。本文記事最下段の二枚の写真は廻頭湾歩道入口から暫く入った地点の歩道、即ち旧理蕃道の様子。錐麓古道と何等遜色は無い。

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2012年01月14日

合歓山越嶺古道−23(梅園竹村歩道−2)

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【写真説明】左写真は梅園竹村歩道最初の吊橋である清流吊橋。以前の橋柱の直近にもう一つ新たに橋柱を立てていた。中央写真はその清流吊橋を過ぎてやがて梅園竹村歩道と蓮花池との分岐に至ろうとする場所から清流吊橋方面を振り返ったもの。旧警備道がどういう場所に開鑿されたかがよく判る。右写真はその分岐、嘗て梅園駐在所が置かれていた場所へ向かう途中にある道標。

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2012年01月21日

合歓山越嶺古道−24(梅園竹村歩道−3)

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【写真説明】上左写真は、廻頭湾入口から1.5キロ付近になる梅園竹村歩道と蓮花池歩道の分岐点に立つ指導標、右写真はその指導標右手に掛かるタウサイ渓を渡る九梅吊橋、この吊橋を渡り蓮花池に至る。同地は日本時代はソワサル社が存在した場所。今回は時間が押しており蓮花池歩道を辿るのは諦めた。

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2012年01月28日

合歓山越嶺古道−25(梅園竹村歩道−4)

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【写真説明】廻頭湾入口から約3キロ付近から過去数度の台風に依る梅園竹村歩道の大崩壊部が始まる。崩壊が始まる部分には今でも左写真の「前方歩道大崩壊に付き人、車両進入禁止」の警告板とその右にはカラー写真入りの公告が掲げられていた。この公告は2010年9月、モーラコット台風から約一年後のもので、写真は大崩壊部を過ぎて更に歩道前方に掛かる忠孝吊橋の約一年前の惨状である。写真二枚目、三枚目は崩壊部入口と出口付近各々から歩道を望んだもの。

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2012年02月04日

合歓山越嶺古道−26(梅園竹村歩道−5)

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【写真説明】[梅園-1] 梅園竹村歩道と蓮花池歩道の分岐から大崩壊部を経て次のマイルストーンは梅園、この間約3キロの距離だ。大崩壊部を抜けてからはそれまでとは多少景観が変化する。上掲左写真は梅園付近から梅園竹村歩道入口方向を振り返ったもの。歩道の両側には嘗ては瑞々しい畑が散開していたと思うのだが、今は、投げやり的な調子で所々明らかに人の手になる作物が栽培されている。同中央写真は唐辛子が栽培されている様子。

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2012年02月11日

合歓山越嶺古道−27(梅園竹村歩道−6)

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【写真説明】[梅園-2]古道俯瞰図をアップしたので、左側メニューの「合歓山越嶺古道」をクリックしてまず梅園の位置を確認して欲しい。俯瞰図では山里社(下梅園)と記載したが、梅園の現在の正式行政区域名は、花蓮県秀林郷富世村梅園である。まず秀林郷というのは、花蓮県北端の郷で宜蘭県と接している、花蓮県のみならず台湾最大面積の郷鎮だそうだ。次に、富世村だが、その秀林郷中最大面積を擁する村で、タロコ渓谷をすっぽり包含している。「富世」とはタッキリ渓河口近くにあったブセガン社の頭二文字の漢音訳である。因みに、タロコ国家公園は大部分が秀林郷内にあるが、実際は花蓮県+南投県+台中市を跨いでいる。尚、今回掲載した写真は数個しかない梅園部落の中の一戸の庭先で昼食を摂らして貰った時に撮影した。(続く)
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2012年02月18日

合歓山越嶺古道−28(梅園竹村歩道−7)

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【写真説明】左写真、忠孝吊橋入口で若い夫婦に出会う。忠孝吊橋は「合歓山越嶺古道−25(梅園竹村歩道−4)」左写真で紹介した警告板写真に採用された。タウサイ渓左岸の支流に掛かる吊橋先端が進行方向左側から雪崩れ込んできた土砂で断裂していた。それが中央写真である。右写真は忠孝吊橋に並行に残る日本時代敷設の鉄線橋残骸。梅園竹村歩道上で確認出来る日本時代の遺構は先に紹介した梅園駐在所跡とこの吊橋のみだった。

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2012年02月25日

合歓山越嶺古道−29(梅園竹村歩道−8)

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【写真説明】左写真は忠孝吊橋を過ぎ程無く至る梅園竹村歩道に掛かる三本目の吊橋、仁愛吊橋。これもタウサイ渓に直接掛かる吊橋ではなく支流に掛かる。右二枚の写真は、この仁愛吊橋と最後の吊橋である陶賽吊橋との間の歩道、即ち日本時代の旧警備道の雰囲気を濃厚に残した部分。(続く)
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2012年03月03日

合歓山越嶺古道−30(梅園竹村歩道−9)

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【写真説明】トウサイ渓に掛かる最後にして最大、最長の陶塞吊橋。対岸が旧トウサイ社、現竹村(上梅園)。その橋上からトウサイ渓上流(中央写真)と下流(右写真)を望む。

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2012年03月10日

合歓山越嶺古道−31(梅園竹村歩道−10)

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【写真説明】左写真に写る手前二本の柱は日本時代鉄線橋の橋柱、奥は現在の仁愛吊橋。右写真右写真は陶塞吊橋橋柱付近、小振りの柱が日本時代遺構に相当するようだ。本文記事下掲写真は台湾サイト中で見付けた陶塞吊橋の日本時代橋柱の紹介記事。

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2012年03月17日

合歓山越嶺古道−32(梅園竹村歩道−11)

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【写真説明】旧タウサイ社の現況を三枚。左写真は村入口の三叉路に立つ十字架。中央写真は水蜜桃畑越しに来し方を仰ぐ。右写真は村の中の今は住人無き家屋。このように完全な家屋は殆ど無いので、往時の村の様子を想像するのは難しい。

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2012年03月24日

合歓山越嶺古道−33(梅園竹村歩道−12)

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【写真説明】旧タウサイ社天主堂は当地住民の数に比してよく管理が行き届いている。急速にここの住民が他地方に転出していったのはつい最近のことだと思われる。日本風に言えば典型的な過疎地域ということになろう。本文記事下写真二枚も同じ、下掲右側は同教会裏の様子。

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2012年03月31日

合歓山越嶺古道−34(梅園竹村歩道−13)

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【写真説明】タウサイ駐在所跡へ至る道路の様子。この両脇に嘗て家屋が並んでいたが、現代風なコンクリート製家屋が数軒残るのみで後は軒並み空き地である。左側写真に写る道路は私が迷い込んだ部落の最高所で、この道路脇にある電柱で電線が切れていた。ネット上の写真は2009年5月、私の撮影が2011年10月、その間二年半の時間が経っているが、今でも路面が完全に露出しているので、誰かが定期的に道路脇から覆いかぶさる萱を切っていることになる。

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2012年04月07日

合歓山越嶺古道−35(饅頭山)

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【写真説明】饅頭山、荻坂山と連続するタッキリ渓右岸の山稜山腹に一直線に延びる合歓越道路が開鑿されていたが、元々はタロコ族が永年使用してきた連絡道だった。ここに掲載した三枚の写真は、今でも目を凝らしてみると嘗ての警備道の痕跡を辿れるという証拠を示したものだ。廻頭湾を後にし豁然亭(「合歓山越嶺古道−11」)を過ぎると中横は再びタッキリ渓上部に出て来る。そこでタッキリ渓対岸を撮影した。左写真の一番左側の瘤が饅頭山、その一個置いて右隣の瘤が荻坂山である。中央写真、並びに右写真は古道が走る饅頭山山腹を撮影、斜面を写真右上から左下へ横切る道路跡が確認出来る(と思う)。

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2012年09月15日

合歓山越嶺古道−36(蓮花池歩道)

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【写真説明】まずA案を実行すべく、「合歓山越嶺古道−22」で紹介した梅園竹村歩道の入口の廻頭湾までやって来た。同じ入口を共用する前回は入山を見送った蓮花池歩道を辿るのが目的だ。すると、左写真の警告板が目に飛び込んで来た。そのまま眼を歩道奥に移すと、橋柱の周りのみコンクリートの土台を残され、橋そのものも含め後はすべて崩落した歩道中最初の吊橋である清渓吊橋(前回「合歓山越嶺古道−23」で紹介)の無残な様子が明確に観て取れた。途端にA案は引っ込めた。

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2012年09月22日

合歓山越嶺古道−37(研海林道)

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【写真説明】左写真は合流キャンプ場横にある岳王亭からタッキリ渓を渡る吊橋。対岸が研海林道へ至る登山口。吊橋の袂には豪快な滝が落ちており、登山道はこの沢に沿う。右写真は吊橋を渡り切り暫く登った場所の登山道の一景色。本文記事最後に掲載の写真は、吊橋を渡り切った場所に掲示されていた警告板。

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2012年09月29日

合歓山越嶺古道−38(霧社−1)

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【写真説明】左写真は旧霧ヶ岡神社入口、左側が参道、右側が中横、清境農場方面に至る。中央写真は、鳥居と階段、鳥居左隣は「山の郷」小館というホテル。右写真は、新装の徳龍宮、廟後方の松に注意。本文記事下掲載の写真は、階段途中に置かれた灯篭。今回と次回の記事を読み易くする為に霧社市街図を起こしたので参考にして欲しい。

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2012年10月06日

合歓山越嶺古道−39(霧社−2)

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【写真説明】霧ヶ岡神社参道左脇に残る日本時代の建築物。徳龍宮の方の話だと、警官宿舎とのこと。場所は、丁度現在の警察署(霧社分局)の上部に位置するので、当時の霧社分室と現在の霧社分局は同位置と予想しても外れていないかもしれない。左写真と中央写真は同一家屋。

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2012年10月13日

合歓山越嶺古道−40(霧社−3)

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【写真説明】旧霧社公学校跡である台湾電力万大発電廠第二弁公室構内。左写真は構内から正門を望む。中央写真は、構内裏側に残る松の大木。右写真は、日本式家屋の台電職員宿舎だと思うが、戦前からのものかどうか?は疑問。

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2012年10月20日

合歓山越嶺古道−41(霧社−4)

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【写真説明】左写真は、埔里方面から霧社を目指し最後の坂を登り切った場所にある「南投県仁愛郷清潔隊」事務所。中央写真は当該事務所向かって右側に設けられている公園で、草は生えるに任せてある。この公園の上がり口脇に設けられた案内板に依ると「霧社事件殉難殉職者之墓」の跡地と謂う事になる。ところが然る同事務所女性職員が、慰霊碑の実際の位置だと教えてくれた場所には、当該事務所の裏の路地にある、その路地を隔てて向かい側の家屋の白壁から僅かに(嘗て慰霊碑を構成していたであろう)階段の一部が飛び出していた。本文記事下掲の写真は、清潔隊事務所横に立つ同慰霊碑の案内板。

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