2008年06月21日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−12

Kodou-229.JPG Kodou-230.JPG Kodou-231.JPG Kodou-232.JPG
【写真説明】右写真は最近になり整備され「恒春古城西門城文化広場」と名付けられた場所に立つ古城俯瞰図。プレートには「恒春県城」と記されているが、牡丹社事件以降、清朝は遅まきながら恒春県を設置、築城したものである。二枚目の写真は西門城文化広場の少し高い場所から恒春市街を俯瞰したもの。同写真左側に写るのが西門、その門より手前駐車場側が城内、反対側が城外。一枚目の古城俯瞰図と併せて見ると判るが、朱雀、白虎、玄武に相当する山々が写り込んでいる。これらの呼称は日本では高松塚古墳の壁画が発見された際、一般の人々の耳にも頻繁に入るようになったのではないかと思う。築城の際、その地を選ぶ際の謂わば験(げん)担ぎである。三枚目の写真は西門、同写真中の自転車の御仁は将に城外へ出ようとしているところ。四枚目の写真は南門と東門を繋ぐ復元された城壁。写真奥に写るのが東門である。即ち、写真左側が城内、右側が城外で、二枚目写真と同様に朱雀、白虎、玄武に相当する山々が写る。恒春県城の場合、東西南北の城門はすべて復元されている。この内、西門と北門は今でも一般道が通り抜けており、自動車も片側通行出来る。但し、東門と南門は通り抜け出来ないのは保存の為と言うより、片側一車線通行では現在の交通量を裁き切れないからである。

[恒春城]
恒春の古名は漢字では「瑯[山/喬]」等数種を充てたりしていたが、これはオランダ人が「Longkiauw」(ロンキャオ)と記していた台湾語音訳だとされている。その音訳の語源に関しては色々説はあるようなのだが、恒春半島一帯に広く分布していた蘭の一種を意味するパイワン語だとか、その蘭とは胡蝶蘭だとか、或いは「琉球」(リュウキュウ)からの転だとか。

恒春と呼ばれるようになったのは、牡丹社事件後、清朝が慌ててこの地に恒春県を設置(1875年、明治7年)、築城を開始してからだ(完成は1880年、明治12年)。恒春の名は年中気候が温暖なことに拠る。前述の恒春の古名の由来から胡蝶城と呼ばれることもあるようだ。

恒春城は台湾内の古城では最も新しい築城、その為、最も完全な形で保存されていると云われている。現在国家二級古蹟、東西南北の城門はほぼ完全に修復・復元され、加えて城壁もかなりの長さで復元されている。加えて、然程大きくない現在の街がその中にすっぽり納まっているので、台湾古城の構造、規模等を理解する為には教科書的な古蹟だと思う。

恒春の街自体は墾丁国家公園には含まれていないが、公園の入り口という有利な地理条件を有しており、この古城をシンボルとして歴史とモダンさを併せ持つ観光都市として急速に装いを新たにしつつある。(メルマガ「台湾の声」2006年11月19日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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