【写真説明】左写真の手前に写る石垣は、近代日本初の外征となった征台の役(1874年、明治7年)時に死亡した人々の霊を祀った「征蕃役戦死病歿忠魂碑」の台座。該碑の本体は既に遺棄されている。同写真の奥に写るのが嘗て「西郷都督遺績紀念碑」であったもの。今は「澄清海宇還我河山」(澄ミ清キ海宇、我ガ河山ニ還レ)のプレートに替えられている。「海宇」とは海と云うより国土に近い意味だろう。これら二つの日本時代の碑遺構は小高い丘の上に立っているが、一帯は征台の役の際の戦場、今に謂う「石門古戦場」である。台湾側の案内を見ると、この古戦場はこれら二つの碑が立つ標高370メートルの虱母山と同450メートルの五重渓山に挟まれた場所という説明がよく為されているが、もし碑の立つ小山が本当に虱母山であるのであれば、その標高は明らかに間違いである。
中央写真は現在の古戦場を俯瞰したもので、石門山(標高384メートル)の稜線から撮影。同写真左手前の稜線は五重渓山に続く。同写真中央奥の一番低い山の頂に薄茶色の碑が見えている。右写真は屏東県道199線上、車城郷と牡丹郷との境界に掛かるゲート。左側から日本兵、日本軍の大砲、抵抗する当時の牡丹蕃・クスクス蕃が描かれている。同写真後方は石門山斜面。このゲートの脇は駐車場になっており、石門山への登山口となっている。登山道はきちんと整備されており、頂上までは1キロ強、一時間半程度で登れてしまう。古戦場から西郷軍上陸地点を含み台湾海峡まで見通せるのではないかと期待し登ってみたが、頂上は全く展望が利かずがっかりした。
[西郷都督遺績紀念碑]
牡丹社事件に関する古蹟としては、その契機となった、漂流して牡丹社を中心とするパイワン族に殺害された宮古島住民の墳墓(「大日本琉球藩五十四名墓」)と石門古戦場記念碑(元々は「西郷都督遺績紀念碑」、今は「抗日記念碑」に改装)は日本でも台湾でもよく紹介されている。前者は省道26号線から日本時代から続く四重渓温泉方面の道標に従い県道199号線に入ってすぐの場所に、後者は四重渓温泉を過ぎ牡丹社に向かって走るとすぐに見えてくる小山の上に立っている。
記念碑の方は丈が高く目立つし、道標もあり、又、専用駐車場もあり、誰でも気軽に立ち寄れる。他方、遭難琉球民の墓の方は未だに一切の道標、案内板がなく、畑の中に文字通りぽつんと立っており、自動車道から然程離れているわけではないが、初めて訪れる人は案内人無しでは辿り着くのが容易ではないと思う。良くも悪くも近代台湾の幕開けとなった事件に関わる事跡だと思うのだが、何故このような扱いを受けているのかは今でも疑問だ。
尚、「西郷都督遺績紀念碑」の傍には別に「征蕃役戦死病歿忠魂碑」も併せて建てられたそうだが、とうに廃棄、現在の記念碑とは別な場所に土台だけが同じ小山の上に残ってるが、その土台に忠魂碑が載っていた。(メルマガ「台湾の声」2006年11月19日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
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