2008年05月03日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−5

Kodou-209.JPG Kodou-210.JPG
【写真説明】左写真は、古道北側入口であるパイワン族の小村、南田。同写真奥の突端は観音鼻。右写真は海岸に遊ぶ水牛、海と水牛の取り合わせはおもしろい。

省道26号線が間歇的にしか開通していないということは、将来の26号予定線は観光上の開発の手が入っておらず、当然手付かづの自然が残っている部分が多いということになる。実際、東海岸の海は実に綺麗だ。天気さえよければ山を越えて東海岸に出て初めてその海が眼前に広がって来た時は誰でも感激する。ところが、海だけみていればという話で、海岸線は様々な生活廃棄物の漂着でお世辞にも綺麗とは言えないし、自動車が入り込める部分は釣り客、ハイカー、地元の人々が残したゴミが散乱している場所が多く、非常に残念だ。それでも、佳楽水と達仁との間の海岸線は単調な景観の海岸が横たわっているのではなく、変化に富んでいる。即ち、南から北に向かい、佳楽水に代表される岩が波の浸食で様々な奇岩を作り出している海岸、八瑶湾北岸の台湾最大と言われる九棚(港仔)大砂丘に代表される砂丘、そして古道に沿った鵝卵石海岸という具合に変化していく。

小さな漁港の周りというのはすべてがうら寂しい漁村が点在しているとわけでもない。たとえば八瑶湾には、寧ろ豊かな農村風景が広がりその中で水牛が飼われている。落ち着いた農村に水牛の点景というのは実にゆったりとした落ち着いた風景だ。東海岸を更に北上すると以前紹介した浸水営古道の東側起点の大武郷大武村になるが、そこにも水牛の牧場があった。その水牛の祖先は浸水営古道の西側起点枋寮から古道伝いに連れてこられたそうなのだが、八瑶湾の水牛の祖先も同じように古道西側起点恒春から連れてこられたのかもしれない。

次回以降は恒春卑南古道紀行の続編として、古道周辺の風景、即ち、恒春半島並びに墾丁国家公園内に点在する一般の観光客には余り馴染みのない名所・古蹟を継続紹介していく予定である。(メルマガ「台湾の声」2006年9月30日掲載分の一部を改編:終わり)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(2) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
旭⇔南田、この間は地図を見る限り村落もなく、道路には『管制路段無法通行』の文字。ここが阿朗伊古道なんですね。安朔渓を渡る省道9号線には『阿(朗の下に土)衛橋』の文字があって同じ音のような気がします。10キロ余りの海岸線の道路、それも途中に人が住んでないような所に“固有名詞を冠した”道を造るのはどういう意味があるのでしょう。勿論南田と旭海を結ぶと言う事は分かりますが。
下南田の南、達仁渓口北に『旧南田』の文字があります。これまでは高地から低地への移動はありましたが、海岸線上の移動は見ませんでした。これはどういう理由でしょうか?

Posted by メイウェンティ at 2008年05月23日 01:08
現在台湾で使われている古道の名前の多くが後世の人々が勝手に付けたもので、元々は名前が付いていたかどうかすら怪しいものです。更に、漢字までに拘りだすとますます複雑怪奇です。先般メイウェンティさんも歩かれた「阿礼越嶺古道」、そんな古道名が付いているのをネット上の山行記録で見付けて驚くやら感心するやら。確かに越嶺古道ですものね。それとどこまでが古道の延長かというのも難しい問題で、自動車道の下に埋もれていたり或いは住宅の中に埋没していたり。ですから、「ここが阿朗伊古道なんですね」ではなく「ここも阿朗伊古道なんですね」が正しいでしょう。車の入れない海岸線だけが残ったというべきで、後は省道、県道などに取って代わられています。要は、文明の光(具体的には自動車等)が当らない所だけが取り残されそこを古道と名付けているようです。何故、海岸線?当時はそこが村々(今は殆ど遺棄されている)を移動するのに最も便利だったからでしょう。海岸線上の移動、単に交通の便利な場所(例えば、達仁側)へ移ったと考えるのが妥当だと思います。(終わり)
Posted by 玉山 at 2008年05月24日 17:07
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック