2008年04月05日

恒春卑南古道(阿朗伊古道)−1

Kodou-198.JPG Kodou-199R.JPG Kodou-200.JPG
【写真説明】左写真は台湾海峡沿を走る省道1号線から分岐する屏東県道199号線に入ってすぐの道路脇の畑の中にぽつんと佇む「大日本琉球藩民五十四名墓」、良くも悪くも近代台湾の幕開けとなった牡丹社事件に因む古蹟であるが、今でも道路脇には一切の道標が無いのでここへ辿るには在り処を知った人に頼るしかない。中央写真は屏東県牡丹郷の郷公所(役場)のある石門村全景、同写真右側は屏東県では最大の水量を誇る牡丹水庫(ダム)、牡丹社は更に内陸に入った太平洋側にある。右写真は宮古島島民は流れ着いた八瑶湾全景、琉球藩民の墓は台湾海峡側であるが、八瑶湾は太平洋側。同写真右側には九棚砂丘が見える。

[筆者注:これまでもそうだっが、本ブログ中で現在の台湾の自動車道を紹介するのに「省道」という表記を用いる。これは「台湾省」道の略で、本来は「国道」とすべき所だが、今でも交通部では変更していないので、そのまま「省道」という表記を採用する。因みに、現在交通部が「国道」と称しているのは、高速道路(「高速公路」)のこと。]

恒春卑南古道とは、台湾の最南部恒春半島を東西に横断する道路であり、牡丹社事件以降本格的台湾経営に乗り出した清朝が開鑿した東西横断道の一つと謂われている。台湾海峡側にある屏東県恒春から満州を経由して太平洋岸の八瑶湾に抜けて海岸線を北上、卑南、即ち台東へ抜けていたのだが、現在ではその殆どが自動車道に取って替わられている。即ち、恒春から太平洋岸に抜けるまでは県道200号線、太平洋岸に抜けた後は省道26号線と省道9号線という具合にだ。尚、八瑶湾は牡丹社事件の切っ掛けとなった宮古島島民が漂着した場所だ。この湾の名前は湾に流れ込む川の上流にあるパイワン族の村、満州郷八瑶村(日本時代表記:バヨウ社)に因んだものである。

ところで、200号線の北側にもう一本東西を横断する県道199号線があり、こちらの方が寧ろ日本時代との係わり合いという点では歴史を感じさせる。西側起点が恒春の北隣の町、車城、途中、日本時代から続く四重渓温泉、征台の役の舞台となった石門古戦場、更に牡丹社を経由して太平洋岸の牡丹湾に抜ける。(メルマガ「台湾の声」2006年9月30日掲載分の一部を改編:次回へ続く)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 恒春卑南古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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