2008年03月15日

八通関古道鹿鳴段−1

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【写真説明】左写真は日本時代から数えて三代目、或いは四代目と謂われる鹿鳴吊橋。二枚目の写真は現在の吊橋橋門横に残る二代目、或いは二・三代目の日本時代建立の橋門。三枚目の写真は吊橋を渡った対岸にある二代目(二・三代目)橋門。二枚目の写真の「鳴」の文字は故意に抉り取れているが、対岸のものは無傷。右写真は現在の吊橋の遥か下方のラクラク渓の川原に僅かに顔を覗かせている一代目橋門、1920年(大正9年)の竣工だそうだ。

ここまでは清代開鑿のものも含め八通関古道の全体を駆け足で紹介してきたに過ぎない。今後は日本時代開鑿の八通関古道を南投県東埔温泉を起点とする西段と花蓮県玉里を起点とする東段に分けて更に詳しく紹介する機会が将来あると思う。ここでは、誰でも簡便に散策出来、しかも古道として現存する東段の始めの部分を、これまでの「八通関古道」ブログの追加として数回に渡り紹介する。但し、これから紹介する部分は林武局が東段とは別な呼称を用いているので、ブログのカテゴリーも分けることにした。

花蓮県玉里市街と八通関古道東段登山口を結ぶ省道18号線上、玉山国家公園南安ビジター・センターと登山口の中間辺りでラクラク渓に降りていく道が付いる。昨年(2007年)、その降り口に「八通関越道」(日本時代の正式名称は「八通関越道路」)の大振りの木製道標が建てられたので判り安い。実はここは旧古道と省道18号線との出会いであり、そこから先登山口までの省道は嘗ての古道を襲ったものである。

その道を降り切ると立派な鉄筋橋門を擁する鹿鳴吊橋が掛かっている。日本時代の架橋から数えると三代目、過去二代の日本時代建立の橋門遺構と同居している。本ブログでも、何度か今でも台湾山間部に残る日本時代の架橋(その殆どが吊橋)遺構を紹介してきたが、鹿鳴吊橋のこの複数旧世代との同居のユニークさは台湾唯一である。但し、林務局がこの吊橋の対岸に設置した案内板では、日本時代三代、現在の吊橋は四代目との説明がある。現在の吊橋橋門横に残る日本時代の橋門は二回の架け替えを行ったという意味であろう。

さて、この現代の三代目(或いは四代目)吊橋、その長さと高度から推して相当な費用を掛けたはずだが、残念ながら単に酔狂な訪問者をラクラク渓対岸に渡すだけの役目しか果たしていない。南安ビジター・センター、或いは古道東段登山口から日帰りで散策出来る部分を訪れる観光客は非常に多いのだが、その殆どがこの吊橋の存在を知らないようだ。残念ながら普通の観光客にとって、勇を鼓して目の眩むばかりの高度感のある吊橋を渡っても、対岸にあるのは廃棄された林武局事務所と、日本時代開鑿の八通関古道「鹿鳴段」の入口(出口)だけである。それでもラクラク渓の水流は実に美しい。(終わり)
posted by 玉山 at 00:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 八通關古道-鹿鳴段 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
橋の周辺はけっこう深い森なんですね。対岸には廃棄された林務局事務所と古道入り口だけとのこと。私の地図では橋を渡った所に『鹿鳴』という部落(ただ小学校の表記も派出所の表記もないのでこの部落はもうないのでしょうね)があり、そこから卓楽小の西側まで道があります。これ元々開鑿されたものなのですね。写真で橋のまわりの様子をみると道があるかどうかと思えるような感じですが、どうなのでしょうか?

『鹿鳴』と言う名はいつのものなのでしょうか?
その意味を調べたら詩経から来ていて宴会で客をもてなす詩歌、歌。「鹿鳴の宴」として唐代に都へ上る人を送る宴会とあります。八通関越道路の入り口だから「都へ人を送る」ということも関係があるのか等とも思いますが、如何でしょうか?
Posted by メイウェンティ at 2008年03月19日 00:03
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