【写真説明】花蓮県玉里市街にある玉里栄民病院(左写真)の脇の道路(右写真)が嘗て日本時代の八通関越嶺道東段の入口だった。今はその面影は全く霧散している。
余談だが、日本時代の写真を見ると、当時玉里市街地内にあった八通関古道の入り口には立派な石柱(「八通関越道路起点」)が設けられていたことが判る。それが現在の玉里市内のどこにあったのか、この古い写真を頼りに訪ねてみた。頼りは写真のバックに写る低い山と石柱隣の立派な生垣を持つ家である。
この写真を先の南安ビジター・センターの職員に見せたら、玉里栄民病院の近くで年配の方に聞けばすぐ判る、と言われたので実際そうしてみたが、実際現場近くに行って尋ねてみたが要領を得ない。そこで、まずこの病院の構内に入ってみることにした。すると、その写真とそっくりな風景が広がってきたので、病院の構内を歩き廻り、写真とぴったりと一致する所を探し出そうと試みたのだが、うまく行かない。試しに、病院を出て病院横を通る道路に入ってみると、写真と全く同じイメージで低い山が重なるではないか! 加えて、その路地横の空き地が台湾電力所有になっていたので、嘗ては写真中の立派な生垣を持つ家の跡地であることは容易に推察できた。この後、近くの食堂で食事した際そこの主人に同じ写真を見せたところ、探し当てた所が正に当時の古道入口であったことを確認することができた。
何も重い荷物を背負い長い距離を苦労して歩かずとも、台湾古道探訪は十分可能という一例である。(>(メルマガ「台湾の声」2005年4月26日掲載分の一部を改編)終わり。)
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今回の病院の横の道は私の地図によると、病院から2キロほどで歩道になり卓渓山の頂上付近を通り、そのまま尾根伝いに玉里山に向かいひたすら登る道です。そして、玉里山頂上には行かず西に反れ、阿桑来jiaで2本になり大水窟池の辺りでまた1本になります。ラクラク渓の南側の道も同じようにこの辺りで交わります。
なお、これらの道は北から『八通関古道』、『八通関越嶺古道』、『八通関越嶺道』となっています。
地図は《台湾走透透》戸外生活図書出版2004年修訂18刷です。
簡単に言うと、清・日本時代の古道は最高点である大水屈西側はほぼ同じコース、東側は大水屈を境に大きく分かれ、清時代はラクラク渓の北岸沿いに開鑿、日本時代は南岸沿いに開鑿されました。玉里市街から卓渓山東側稜線を辿り玉里山方面へ抜け、アサンライガを経由していく道は清代開鑿の古道で、今でもこれら二つの山への登山道として使われている(特に卓渓山、玉里山のアクセスは卓渓沿に登るのが一般的な様子)ようです。清代開鑿のものは一般登山者向きでは無く整備もされていませんが、今でも物好きな人が歩いているようです。
ラクラク渓南岸に開鑿された日本時代の東段(当時の花蓮港庁と台中州の境界まで。)の理蕃道の正式名称は「八通関越道路」(「嶺」の字は無し)で、今現在一般の登山者対象であり、林務局に依り整備・管理されているのはこの日本時代開鑿の警備道で、これが通常「八通関古道」と通称され、大水屈、八通関を経由し南投県東埔温泉まで抜けるるものです。鹿野忠雄の「山と雲と蕃人と」の中では、玉里(越)横断道路、中央山脈横断道路、或いは単に横断道路という表現等で出てくる道路です。
日本時代の八通関古道東段登山口から蕨(わらび)駐在所跡までの約15キロは、非常に良く整備され沿線の自然も美しく、日帰りも可能、日本時代の遺構も多く、日本時代という観点からは宛ら生きた歴史博物館の感があります。それから先は道幅が狭く道路に掛かる藪も多くなっています。
お手持ちの地図は私は持たないので「二本」の意味がイメージ出来ませんが、「八通関古道」は西段(清・日)、「八通関越嶺古道」(清・東段)、「八通関越嶺道」が(日・東段)と想像します。
尚、八通関古道に関する一般向け書籍では、「八二粁一四五米、八通関越道路東段史話」(玉山国家公園管理処発行、「82キロ145メートル」は日本時代の警備道の玉里入口から台中州境界までの距離)が極めて詳細、清・日本時代双方の八通関古道の踏査記録は同公園管理処委託事業の研究成果で楊南郡に依る「玉山国家公園八通関越嶺古道調査研究報告」(同公園のホームページからダウンロード可能)が最高峰で、多分この種の調査研究では唯一のものですがもう二十年ぐらい前の調査です。(了)
「二本」についてですが、大水窟〜玉里(東段ですね)においてラクラク渓の北側に二本です。ですから、私の地図では東段がラクラク渓の南側の日本時代のものと合わせて3ルートあります。
楊南郡の「玉山国家公園八通関越嶺古道東段調査研究報告」、ダウンロードしました。ただ、リンクの『台湾国家公園総合案内』からはできませんでしたが、なんとか辿り着きました。それにしても130ページ!頑張りたいと思います。せっかくの写真がはっきりしないのが残念ですね。