【写真説明】台湾中央山脈の最高峰秀姑巒山(しゅうこらんさん、標高3,805メートル)の頂上から八通関古道が横断する方面を望んだもの。筆者は実際古道の一部を歩いたり、本を読んだり、地図をつぶさに見たりと八通関古道の全貌をイメージしようと色々試みたが、結局この台湾五嶽の一座の頂に立って初めてその全容に対するイメージが掴めた次第である。写真右側が八通関方面、左側が太平洋方面である。筆者が立っている場所が既に四千メートルに近いので、見下ろしている山々は殆どが優に三千メートルを越えていることになる。例えば、写真左奥の稜線中飛び出た頂は新康山(標高3,331メートル)である。写真右側から登ってきた八通関古道は、丁度雲が掛かっているその下に沿って太平洋側の花蓮に向かい抜けている。雲が切れている右端が大水屈駐在所があった辺りで古道の最高所である。
呉光亮指揮下の清軍は、現在の南投県竹山鎮から開鑿を開始し、日本時代に開発され今でも賑わう東埔温泉付近から陳有蘭渓を辿り、台湾最高峰の玉山の東側に広がる丈の低い笹の大草原である八通関(標高2,800メートル)へ達し、古道の最高点であり且つ古道の東西分岐点である大水屈山(台湾百岳9号:3,636メートル)を巻きながら、ラクラク渓(現代表記は拉庫拉庫渓、或いは楽楽渓)を辿り、現在の花蓮県玉里鎮に至る全長153キロの道路を、その過酷な自然条件と原住民族の抵抗に遭いながらも、僅か11ヶ月を経て1875年(明治8年)に完成させた。
しかしながら、当初の目論見であった漢人の開拓移民、原住民族の慰撫もままならず、加えて、清朝政府も結局台湾経営の縮小に転じたこともあり、1895年(明治28年)、日清戦争、下関条約を経て日本の台湾領有が決定した頃にはすっかり荒廃していたらしい。翌1896年(明治29年)、長野義虎陸軍歩兵中尉は、玉里から出発し、日本人として玉山に初登頂、阿里山を経て嘉義に17日をかけて降りたのだが、恐らくその荒廃した古道の一部を辿ったものと考えられる。(>(メルマガ「台湾の声」2005年4月26日掲載分の一部を改編)次回へ続く...)
【関連する記事】
- 八通関古道西段-29
- 八通関古道西段-28:大水窟駐在所
- 八通関古道西段-27:州廳界
- 八通関古道西段-26:南駐在所−2
- 八通関古道西段-25:南駐在所
- 八通関古道西段-24:躑躅山駐在所−2
- 八通関古道西段-23:躑躅山駐在所
- 八通関古道西段-22:秀姑巒駐在所−2
- 八通関古道西段-21:秀姑巒駐在所
- 八通関古道西段-20:バナイコ駐在所
- 八通関古道西段-19:八通関駐在所−2
- 八通関古道西段-18:八通関駐在所
- 八通関古道西段-17:観高駐在所−2
- 八通関古道西段-16:観高駐在所
- 八通関古道西段-15:対高駐在所
- 八通関古道西段−14:ラクラク駐在所−2
- 八通関古道西段−13:ラクラク駐在所
- 八通関古道西段−12
- 八通関古道−11
- 八通関古道−10