【写真説明】左写真はハイカーが雲海保線所に到着すると最初に目にする光景。既に建て替えられてはいるが、小道に導かれる保線所は恐らく尾上駐在所時代もこのような佇まいだったと思わせるイメージである。中央写真は保線所の中庭にある標高2,360メートルを示す碑であるが、ここが尾上駐在所であった折の国旗掲揚台を利用したものだと思われる。右写真は雲海保線所から暫く天池保線所方面に向かう古道沿線上に咲き乱れる山百合(やまゆり)。台湾の山地では五〜七月に掛けて一斉に花を開く。日本の山百合に比べれば相当小振りであると思うが、本当にそうかは余り自信が無い。
雲海保線所は今回で三回目の訪問となる。トンバラの登山口からこの日本時代の駐在所跡までは僅か4.5キロ、二時間程度で辿れるので、登山口までの交通を考慮しなければ十分日帰りが可能である。保線所の前には広々とした庭が広がっており、天気さえ良ければ、東側には能高山とそれに連なる峰峰、南側は霧社方面の雄大な俯瞰が広がる。
雲海保線所から天池保線所方面への平坦な一キロ程は、能高越嶺古道西段では最も気持ちよく整備された一段である。台湾二葉松の並木道と所々に据えられたベンチ、季節によっては咲き乱れる可憐な野草、そして立ち枯れ(実際は山火事)の見事な白木群。雲海保線所までを折り返すハイカーも、もう少し辛抱して足を延ばして欲しい。但し、その先には西段では二箇所目の大崩壊部が控えており、初めてこの古道を辿った時はそこで引き返さざるを得なかったし、今回も進入禁止の林務局の警告板が置かれていた。
さて、保線所について。「台電輸電線路與興築」(台湾送電線と構築)と題された古道上の案内板には古道との関り合いが判り易く説明されている(原文中文、筆者拙訳):
「能高越嶺道は台湾東西を結ぶ送電線の建設に計り知れない影響を及ぼした。早くは日本時代、日本人は東西送電線建設工事に着工しようとしていたが、第二次世界大戦で中断、民国39年(1950年)に到り、台湾電力は東部地区の電力を西側に供給する為に、能高越嶺道沿いに歩道を建設、東西高圧線の敷設を進めた。銅門(花蓮県秀林郷)から霧社に到る高圧線は合計327基の大型鉄塔(高圧線架)で結ばれ、その間十キロ毎に合計八箇所の保線所を設置し、高圧線保護・維持の為の便宜を図ったが、これらの保線所はもともと越嶺道上にあった日本時代の駐在所が基礎になっている。当時この一大壮挙は「電力の万里の長城」と讃えられ、中央山脈の険阻な脊梁を跨ぎ送電される電力は、その後の台湾の経済発展に重要な役割を果たした。」[注:()内は筆者が加えた](終わり)
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