2007年09月01日
崑崙拗古道−10
【写真説明】左写真は台東県大武郷大鳥村入口に立つ鷹のモニュメント。右写真は大鳥国民小学校の校庭脇に残る日本時代に植えられた二本の樹木(樹の名前は忘れた)で、嘗てはここが大鳥駐在所の入口だった。
金崙渓、大竹渓、大武渓沿いには多くのパイワン族の部落が点在するのだが、これらを丹念に訪ね歩くのは高雄市をベースにしていると難しい。前回「崑崙拗古道−9」と同じように、古道東端の周辺の点景としてもう二三だけ紹介し、崑崙拗古道の記事掲載を一旦完結させることにする。
大武郷は、南から南興村、尚武村、大武村、大鳥村、大竹村の五村から成る、太平洋岸に沿い細長く延びる総人口8万人程度の行政区画である。現在郷公所は尚武村に置かれているが、日本時代の中心地は現在の大武村にあった。その大武村の真ん中を流れる大武渓を渡り省道9号線を少しだけ北に進むと、鷹のモニュメントが置かれた大鳥村の入口が見えてくる(大島村の位置については、前回「崑崙拗古道−9」の記事中の地図を参照)。台湾鉄道南廻線のガードを潜り抜けると、すぐに大鳥国民小学校があり、そこが村の中心になる。1927年(昭和2年)、台東庁大鳥蕃童教育所としてスタート、1936年(昭和11年)に大鳥公學校となった由、この小学校の沿革に謂う。さて、大鳥村を紹介するのはその地名に惹かれたからである。明らかに最近になり設置された村の案内板には以下のように由来が述べられている(筆者に依る拙訳):
[訳出始め]「大鳥」(おとり→筆者注:この平仮名は案内板にそのまま書かれたもの。「おおとり」の誤表記と思う)という地名は日本時代の昭和12年(西暦1937年)に命名された。「大鳥」の由来については種々の説がある。まず、嘗てこの地に巨大な人喰い鳥(パイワン語でzazakaw)が出現したという百年来の故事に因んだもの。二番目は、この地がいまだ未開発だった頃、点在する草葺の家が遠くから見ると羽毛のように見え、且つこの地の地形が大鵬に似ていたことに因んだもの。更にもう一つの説は次の通りである。大鳥は嘗て大武山山麓にあった達万、初屯、彩泉の三村からなるのだが、日本時代、日本人の原住民族に対する統治の簡便化と皇民化の為に、この地に強制的に移住させられた。その際、三村のうち初屯のパイワン族は、それまで一緒に暮らしてきた三種類の動物(鷹、犬、蛇)を伴って下山したそうだ。犬には人が住むに適当な地を探させ、その結果現在の部落の西側を定住の地と決めた(達万と彩泉の人々は各々南側と北側を選んだ)。百歩蛇には部落を守らせ、雄鷹には敵情を監視させた。それ故、外部からこの部落に来る人がまず目にしたのは上空を旋回する大鳥であったことが、現在の部落名の由来となったというものだ。
「大鳥」の由来がどうであれ、この部落の人々はこの地をpacavaljと呼ぶ。沼沢とか盆地の意味なのだが、この地が古より小さな盆地だったことに由来しており、「大鳥」と呼ばれる遥か以前からここはpacavaljと呼ばれていたのだ。[訳出終わり]
昭和12年に地名改正が実施される以前の大鳥は、大鳥萬と表記されていた。達万、初屯、彩泉もこの時の地名改正でそのように改名された。尚、pacavaljはpacafanとも表記されるようだ。(終わり)
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