2007年08月25日
崑崙拗古道−9
【写真説明】左写真は、台東県達仁郷パイワン族の土坂部落(日本時代のトアバル社)入口にある公園。残りの写真は同部落内で見掛けたカタカナ表記の事物。「モリヤ舎」とは「マリア舎」の誤表記と思う。「チュラカブ」とは、写真左奥に写るローマ字表記のパイワン語のカタカナ表記で、家族の出自を表している。以上は現代のこの部落の人々に依るカタカナ表記。右端写真は日本時代に掛けられた「トアバル橋」遺構で、日本人に依るカタカナ表記。
崑崙拗古道は、西は現在の鳳山市を発し、中央山脈衣丁山(標高2,068メートル)の南側山麓を越えて、金崙渓沿いに降りて来る。他方、同じく中央山脈南部を東西に横断する既に紹介した浸水営古道は、西は枋寮を発し、大漢山(標高1,688メートル)北側山麓を越えて、大武渓沿いに降りて来る。これら二本の古道の位置関係はここをクリックして確認して欲しい。今回は直接崑崙拗古道には関係は無く、寧ろ「パイワン族秘道」シリーズに入れた方がよかったかもしれないが、金崙渓の南側に位置する大竹渓に因んだ記事ということで敢えて「崑崙拗古道」シリーズとして継続することにした。
さて、金崙渓と大武渓との間に大竹渓が同じく太平洋に流れ込んでいる。省道9号線から大竹渓沿いに台東県郷道68号線が中央山脈に向かって走る。大竹渓の河口は太麻里郷大渓部落であり、この68号線を利用すれば、大竹渓谷沿いのパイワン族の村々を訪ねることが出来る。郷道68号線は、大竹渓とその北隣の大武渓を山越しに繋ぐように道路が延びており、標高を800メートルぐらいまで上げた後は、大武郷の大鳥、大武へ降りことが出来る。山間の道路にしてはよく整備されており、普通自動車でも走行が十分可能である。この郷道は、実は日本時代の理蕃道がベースになっている。当時、浸水営警備道上の出水坡駐在所付近から北側に大武渓上流の姑子崙渓まで下り、再び登り返して、大竹渓沿いに大渓まで下ってくる、謂わば浸水営警備道支線と呼べるものである。この支線上のパイワン族の村落、当時のチョカクライ社、タバカス社、トアバル社等に駐在所が設置された。但し、浸水営古道を訪ねた際、出水坡付近にあったはずのこの分岐点は注意していたのだが捜し出せなかった。
現在の郷道68号線の最高点付近まで来ると、そこら一体は台地状になっており、日本時代に牧場として開発された場所で、今でも牧場、農場が広がる。郷道沿線の景色は、殊に道路の最高点まで登り詰め太平洋を見下ろせるようなると実に素晴らしい。チョカクライ社やタバカス社があった場所に相当するが、これらの旧部落跡が具体的にはどこにあるかは判らなかった。
郷道68号線の入口、大渓は太麻里郷であるが、暫く走ると達仁郷に入る。上述の牧場、旧チョカクライ社、タバカス社、トアバル社等は今はすべて達仁郷である。この太麻里郷と達仁郷の境界付近に浄水廠(上水場)があり、その付近に幾つかの橋脚に似た謎の遺構が残っている。そこから暫く進むと、突き当りに派出所があり、「土坂」部落と「台坂」部落との分岐になっている。「坂」は国字(日本の漢字)なので、台湾のネット上では簡便に「板」の字を充てている。わざわざ現在の地名に国字を使っているので日本時代に縁(ゆかり)があるのであろうが、私自身は調査不足故、未だその由縁が判らない。本ブログの読者に依る啓蒙をお願いしたい。
そこから左に道を取り大竹渓沿いに数キロ進むと土坂の部落が見えてくる。現在の「土坂」がそのまま旧トアバル社とは言い切れないようであるが、日本時代から今と全く同じ場所に部落が形成されていたのは、当時の写真で確認出来る。土坂部落の外れで自動車道路は大竹渓を渡り、今は新興橋が架かる。これに平行して掛かっている廃棄された吊橋の前身が「トアバル橋」で、戦後掛け直されたが、「トアバル橋」と「昭和十三年十二月」の銘を持つ主塔(吊橋のワイヤーを張り渡す両端の柱)と橋台(主塔の外側でワイヤーを最終的に固定する台)をそのまま利用してある。今はとても踏み込めないような山奥に当時の吊橋が残っているのであればそれ程驚かない。幹線である省道9号線からこの吊橋のある場所までは十キロにも満たない。そのような地に今でも当時の吊橋の遺構が残っているのには驚かされた。(終わり)
この記事へのトラックバック
人気の代表的な機種を整理してみた。
金額だけみても随分安くなったと実感するが、それ以上に機能が向上している。これを使い切ればプロの撮影も可能なのではないか思える。初心者にしては贅沢なカメラだと思えるが、アナログ時代だった余り変わらなかったようにも思う。だから、ほしい時が買い時なのだろう。