2022年12月10日

壽山古道−31:半屏山(3):半屏山戦備水池

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【写真説明】台湾新幹線左営駅から最も近い半屏山内旧日本軍設営の軍事遺構、貯水槽。左写真は南側、槽幅4b、中央写真は槽長12bの東側側面、右写真は北側、同写真右側に写る道路は現在の湿地帯内の遊歩道、当該遺構との位置関係から、嘗ての軍用道だったはずだ。

壽山国家自然公園管理処『半屏山日治時期戰備設施』論文では合計7箇所の軍事遺蹟が網羅されており、報告書の体裁では砲台等5箇所、地下工場・地下ダムの各一箇所である。同論文は大部なので、同管理処の別の報告書『四山軍事遺址』論文から関係情報の部分のみ切り取りダイジェスト版を作った。こちらの方が見易いと思う。これらの内、半屏山脊梁東側にあるのは砲台等1箇所と地下工場の二箇所、どちらも前回記事で写真を掲載した湿地帯入口から直ぐだ。管理処論文では「水池」の表記になっておりこれが学術上オフィシャルと云うことになるようだが、実際は蓄水槽(貯水槽)だ。サイズは槽長12b、槽幅4b、高さ2bあるので相当大きい。現場には管理主幹が誰か不明の既に剥げ落ちてしまった案内板が建っており、その説明文のタイトルが「軍事[石|周]堡」(軍事壕)となっているので混乱する。混乱に拍車を掛けているのは、説明文中に説明の対象を代表する絵が描き込んであるが、貯水槽そのものである。以上のような混乱のネタはあるが、案内板の説明文は大東亜戦争と半屏山の関係が簡潔に述べられているので、筆者の方で全訳した。この案内板を設置した時期は判らないが、台湾新幹線の開業が2007年1月、壽山公園の開園が2011年12月であることを考えると、その中間辺りと想像される。

「軍事壕」
半屏山は既に清朝時に左営城を守備する東北方面の要塞だったが、惜しいことに当時の軍事遺蹟として今日まで伝えられているものは無い。現在半屏山の軍事遺蹟としては陣地壕と軍用道路があるが、これらは日本統治時代のものだ。当時の日本軍の設営目的は、左営軍港の防衛を強固なものにし、所謂南進政策推進に利することだったと考えられる。就中(なかんずく)半屏山北部に建設された海軍第六燃料廠の保護だった。加えて半屏山最南部の現在の後巷通り沿いの三組の大型トンネル群は戦争状態に対応するのを目的としており、その規模は「壮観」と呼べるものであり、具体的には高鉄左営駅の向い側にあり、将来の発展の潜在力は無視出来ない。以上のように、半屏山土地利用とその人文的歴史背景に関する皆さんの理解を得たいものである。

(続く)

posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 壽山古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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