2007年08月10日
崑崙拗古道−7
【写真説明】左写真は北大武山の山頂稜線上にある大武祠。右写真はその大武祠へ到る階段下に残る昭和19年3月15日建立の高砂義勇隊顕彰碑。基部に碑文は残るが、その上は既に脱落。標高はもう殆ど3,000メートルある。さて、この大武祠、先日テレビの或る番組を見ていて、単なる日本時代の遺物として留まるのではなく、新しい命を帯びつつあることを知った。このブログでも何度も紹介したが、北大武山はパイワン族、ルカイ族の聖山である。原住民族の伝統的な成年式の精神を、原住民の子弟に限らず広く一般の台湾人にも開放しようという主旨で、十八歳になった男女学生が、ここまで登山してきた後、緑の幕を巻いた祠に向かい、一人一人将来の誓いとか夢を宣誓、その後原住民の頭目の方から成年式を無事終了したことを証明する猪(いのしし)の牙の首飾りを掛けて貰うという場面であった。参加した殆どの学生が、首飾りを掛けて貰う時、感極まって泣き出すのには驚かされた。
[北大武山の高砂義勇隊顕彰碑−大武祠]
今回ライ社とクナナウ社の二つの高砂義勇兵の墓標に触れたが、南台湾で恐らく最も特異な高砂義勇兵関連遺址は、中央山脈最南部の三千メートル峰、台湾五嶽の一つ、北大武山(台湾百岳92号:標高3,092メートル)の頂上稜線上に残る大武祠だと思う。
この山は高屏平野の東端から急激に立ち上がっているので、天気が良ければ高雄市からでもよく見える。北大武山の山頂に立ち南側を望むと右手に台湾海峡、左手に太平洋、正面は台湾最南端の恒春半島までがすべて見渡せる。背中の北側には中央山脈が綿々と連なるのだが、地上に在りながら台湾が島であることを強烈に感じ取れる稀有な場所だ。私自身はこれまで二度このパイワン族・ルカイ族の聖山に登る機会があったが、その際はこの大武祠が、実は高砂義勇兵の顕彰碑であることを知らなかった。現在残っているのは顕彰碑の一部、木製鳥居、コンクリート製の祠だけなのだが、ここまで辿りつくのが非常に難儀で顕彰碑の文字を追う気力も無く、碑文の最後に「昭和十九年三月十五日、高雄州知事…」の文字を認め、戦勝祈願の為の建造物だと勝手に理解していた有様だった。
六十年の風雪(南台湾でも三千メートルを越えると積雪を見ることがある)に耐えたこの鳥居は、台湾最高所に現存する神社遺構ということになると思うが、写真を取りながらこの鳥居の向きが気になった。鳥居の向きに関しては、或る一定の法則なり掟があるはずだと思い少し調べてみたのだが、実際、必ず或る「意味」はあるようだ。大武祠のすべての遺構が南向き、即ちフィリピン等、当時南洋と呼ばれていた海域を向いているのに合点がいったのは、これが高砂義勇兵の顕彰碑であることを知った後だった。>(メルマガ「台湾の声」2005年12月23日掲載分の一部を改編:終わり)
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ご無沙汰しております。
大武祠の件、現在、このような儀式が行われているとは知りませんでした。大変興味があります。もっと詳しく知りたいと思います。何か検索できるような資料がありましたら教えてください。
内容理解できました。
もう一度、登って是非この儀式を見たいと思っております。