【写真説明】柴山登山を日課の宗としている向きには「四口灶」で通じる日本軍厨房遺蹟は以前から良く知られた場所なのだが、人口に膾炙している割には、何故日本軍が当時柴山山中に厨房など設営したのか?その由来は語られないのが通例だった。筆者が現地に案内を得たのは2017年4月、当時は一人での再訪も可能と考えていた。丁度五年後の今年、実際一人で辿ってみたのだが、GPS情報を持参しながら大いに迷い、再訪初回は現地に行き付けなかった。再訪二回目も初回と同じく遺構現地の直ぐ傍まで達しているのは理解できてはいても遺構への出入口が見付けられなかったのは初回と同じ。最後はその出入口の上空から侵入するような無様な塩梅になった。五年を経て再度四基の竈(かまど)が並ぶ遺構を尋ねる気になったのは、一つは厨房が震洋特攻隊の「預備撤退山洞」(退避壕とでも訳せようか?)であったと云う情報を得たこと。本ブログの読者には蛇足と思うが、ウィキペディア日本語版に曰く「震洋(しんよう)は、太平洋戦争で日本海軍が開発・使用した特攻兵器(小型特攻ボート)」。『壽山古道−16:「柴山部落越嶺古道」−2』にてさらりと「柴山阿朗伊古道」に言及したが、壽山の震洋格納庫・発進基地はこの新規のハイキングロードの延長線の海岸線上にある。因みに、「爐」の訓読みは「いろり」、「炉」は異体字、「灶」のそれは「かまど」、「竈」は異体字。二つ目の理由は厨房として独立した箇所に加え、三箇所の退避壕と一箇所の給水遺構も残存しているらしいとのこと。殊に後者は新規の『水の古道』の発現となるか?こんな情報、過去二十年柴山へ通い続けても入って来ず、従って、筆者自身の五年前の探訪時の知見は皆無。今になってと嘆きたくなるが、これも国家自然公園への昇格と武漢肺炎禍と無関係であるまい。上段は竈の詳細描写を11x9版で。下段写真は、厨房に近い方から退避壕1、2、3号(現地では「坑道」と通称)、各退避壕は百人近い人員を収容可能との記述を見たことがある。初回探訪時撮影された「壽山古道−19」に掲載の一番左側写真はどうも第1坑道入口の様だが、実はこれらの退避壕に遭遇した記憶が無い。第2坑道の近くに上述の素人目にも特殊な供水システム遺構がある。(続く)
【関連する記事】
- 壽山古道−37:半屏山(9):半屏山地下水庫(配水池)
- 壽山古道−36:半屏山(8):半屏山北砲台
- 壽山古道−35:半屏山(7):半屏山機槍堡
- 壽山古道−34:半屏山(6):半屏山防空壕
- 壽山古道−33:半屏山(5):半屏山南砲台
- 壽山古道−32:半屏山(4):半屏山洞窟工場
- 壽山古道−31:半屏山(3):半屏山戦備水池
- 壽山古道−30:半屏山(2):半屏湖(半屏山湿地)
- 壽山古道−29:半屏山(1):半屏山概観
- 壽山古道−28:左營龜山(2)
- 壽山古道−28:左營龜山
- 壽山古道−27:「日軍爐灶」(4)
- 壽山古道−25:『壽山古道−19:「日軍爐灶」』(2)
- 壽山古道−24:大公陸橋
- 壽山古道−23:田町斎場
- 壽山古道−22:打狗本願寺布教所
- 壽山古道−21:金光教打狗教会所
- 壽山古道−20:西子湾蒋介石行館
- 壽山古道−19:「日軍爐灶」
- 壽山古道−18:「浅野セメント株式会社打狗(高雄)工場)」−2