2022年10月15日
内本鹿越嶺古道西段−9:藤枝林道段(2):「土[土|龍]湾]
【写真説明】嘗て表題の地名で呼ばれていた現在の行政区画は、高雄市六亀区中興里興龍社区である。位置を最も簡便に言い表すには、「六亀市街地の荖濃渓に掛かる六亀大橋を隔てた対岸」、或いは「六亀大橋の向こう岸」で十分適当だと思う(埋込ダイヤグラム参照)。過去二十数年、何回この地を通過したことか。「興龍」への改名のパターンは二文字化(オリジナル地名三文字を「龍」で代表させた)と雅語(この場合は「興」)の組み合わせである。安倍の『臺灣地名研究』には残念ながらこの地名は採録されていない。日本時代の地形図を確認すると、龍の文字は、「つち・へん」、「つち・あし」、「さん・ずい」、龍ママの四つのバリエーションがあることが判るが、主流は土扁だと思う。この灯台下暗しの典型的なストーリーである土[土|龍]湾という地名が筆者の気を大いに引いたのは、これまで投稿して来た今年の六亀警備道踏査の延長である内本鹿警備道西段起点としてである。しかしそれは事の始めであって全てではない。本稿は本来『水の古道』とカテゴライズさせるかどうか少々悩んだ。
「臺灣電力公司高屏發電廠六龜機組」が日本時代、土[土|龍]湾発電所(戦後は「土[土|龍]」発電所に改称)と呼ばれていた発電所の現在の正式名称だ。日本風に言い換えると、高屏発電所六亀ユニットとなろうか。同発電所を構成するもう一つのユニットが、竹門ユニット、国定古蹟竹仔門発電所である。竹仔門発電所の竣工が明治43年(1910年)に対し、土「土|龍]湾発電所の方は大正7年(1917年)である。後者に古蹟指定の建造物があるかどうか?は未だ確認出来ていない。竹仔門発電所の方が余りにも有名な為、ほぼ同時期の創建の土「土|龍]湾の方は、台湾人の間でも非常に認知度が低い。加えて、一般に開放されてはいない。故に、筆者はまだ未踏査である。今回ここで紹介する写真は全て発電所の敷地外からの撮影である。それでもこれらの写真で撮影された明らかに日本時代の遺構と推察出来るものを観察出来た。以上が灯台下暗しの意味、高屏発電所を構成する二つの発電所の起源は日本統治時代であり且つ二箇所ともいまだ現役だということだ。
上段左写真は六亀天后宮、由緒正しき廟堂に見えるが戦後の創建、この廟は台27号線の東側にあるが、その北側に隣接する形で台27号線を横断する土「土|龍]湾発電所貯水池施設(台湾では水源前池と呼ぶようだ)がある。この部分は公園仕立てになっており誰でも入れる。中央写真は発電所正門だが、正門らしからぬ小ささである。右写真は発電所内を俯瞰したもの。記念碑らしきものが見えるが、日本時代のものかもしれない。下段左写真は、上述した公園仕立ての貯水池施設の一部、明らかに日本時代の遺留品と思われる「尾水道制水門」の一つか?中央写真は、圧力水管に流れ込む直前の「前池制水門」、台27号線の西側に設営されている。右写真は圧力水管、水管そのものは日本時代のものと思われる。(終り)
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