【写真説明】林一宏『日本時代臺灣蕃地駐在所』目録上のGPS情報と今回筆者自身が踏査した現地のGPS情報は大きく異なる点(添付ダイヤグラムの上段が今回の踏査対象、下段が林目録情報)に関しては、これ以上の詮索は止めにする。両者の乖離が大きくそうそう容易に現地調査は無理と考えたからだ。この詮索途上で京都在住のM氏より京都大学のデジタルアーカイブ『台湾演習林植物調査報告』(一予報、1931年、 植物調査班、京都大学デジタルアーカイブシステム)の中から実際バリサン駐在所が写り込んでいる写真(第五十五写真)を紹介いただいた。筆者が当日撮影した中に同じ方向を写したものがないか確認したところ、先の投稿で掲載した内本鹿警備道越嶺点を含む南一段方面の写真がそのものズバリだった。その古写真に写り込んだバリサン社と今現在残されているバリサン駐在所遺構位置はどうも異なるようである。古写真のものは中央山脈により寄っている。それで一つの可能性を示唆する為に、バリサン段(1)の中に『理蕃誌稿』からの引用を含めた。要は理蕃事業の変遷に連れ居住地も変化した可能性が高いということである。筆者が起こしたダイヤグラムは筆者の今回の踏査行のGPS情報をベースにグーグル・アースに落とし込んだのだが、これらブヌン族旧社とハイキング目的地が本当に見えていたか?大いに疑問だ。いずれにしろ、そのダイヤグラムと対比させるために、林道第二崩壊地点から撮影した中央山脈東側眺望写真をクロップした。筆者手元の記録では、林道起点1,618b、第1崩壊部1,533b、第二崩壊部1,426b、バリサン駐在所遺構1,277b、蕃里山1,216b。。。と云う具合の下り、写真撮影箇所と遺構との高度差が150b。写真を使った後追いは難しい。(続く)
2022年09月03日
この記事へのコメント
コメントを書く
この記事へのトラックバック