【写真説明】沼津分遣所跡地では正面門に至る回廊ばかりに関心が集中し、駐在所構内の遺構の確認は疎かになった。残存状況の優れた石塁二箇所と使途不明の遺構ぐらいしか撮影したものが残っていない。。。記事の穴埋めを意図しているわけではないが、読者の方々の混乱と筆者自身の困惑を少しでも緩和する為に、ここで少々脱線することにした。これまで、駐在所、警戒所、監督所、分遣所という呼称を横断的に使って来たが、これはウィキペディア中文版「六龜警備線(警備道)」に収録されているリストに依っている。その情報源の大部分は台湾大学登山社(山岳部)の踏査結果がベースになっているというのが筆者の理解だ。台大学側の拠り所は不明だが、以下三つの資料に依り、前出の対原住民警察機関に関し些かコメントする:
・『戟戰奇萊−隘勇線與駐在所』、林一宏、國立臺灣圖書館《臺灣學通訊》第82期
・『從隘勇、警手到蕃地警察』、鄭安睎、國立臺灣圖書館《臺灣學通訊》第88期
・「隘勇」、『ウィキペディア』(中文版)
日本統治時代の原住民に対する警察機構(「蕃地警察」)の基礎は隘勇線から始まり駐在所へと変遷していったという経緯がある。但し、両者の発生起因は異なる。隘勇線の起源は清代の漢人開拓者と原住民との言わば、棲み分け境界線である。日本統治当初、台湾総督府は、原住民に対する漢人の自警団防衛的性格の強かった、最終的には官制化された清代の隘(勇)制度を踏襲する。元々の眼目は「殖産興業」、樟脳製造に代表される森林資源確保とその経営の円滑な運営である。
ところが、特に中・北部原住民の抵抗に遭遇する。明治35年(1902年)発生の南庄事件(現在の苗栗県南庄郷、当時は第四代台湾総督児玉源太郎治下)が転換点となり、隘勇線はこれら原住民に対する威圧・威嚇の手段として包囲線・封鎖線へと変遷する。隘勇線上には、隘寮、分遣所、監督所(後に警戒所へ併合)、駐在所の警察機関が配置された。隘寮には警手(日本人)・隘勇(漢人)が詰め、巡査が駐在する各分遣所が二〜四箇所の隘寮を指揮した。さらに警部・警部補が監督所に駐在した。
隘勇線網は全台湾9区域に集中して設営されたが、南部は六亀地区が唯一、残りは全て中・北部だ。タロコ戦役を以て五箇年理蕃事業計画が終了(大正4年/1915年)、原住民の総督府への帰順が進むと、隘勇線の多くが撤廃・整理され、蕃地警察上重要なものは警備線化・理蕃道化が進む。大正13年(1924年)には隘勇線上の全警察機関を排し、警察官吏駐在所への併合が始まる。昭和5年(1930年)にこの代替は完成、同時に台湾隘勇制度は終了する。
以上の経緯を鑑み、本投稿では対原住民警察機関を「駐在所」と統一して呼称してよいのではないか?と云う立場である。ところで、これまで紹介した六亀特別警備道上の駐在所遺構として「駐在所」そのものを紹介したことがないことに漸く気付いた。台大資料の示す所は、それが以前紹介した「森山」「駐在所」(扇平森林生態科学園上方の気象観測ステーションに跡地有り)のようだ。筆者自身は長らく森山駐在所跡地イコール池鯉鮒分遣所跡地と思い込んでいたが、両者は位置が異なる模様。詰まり、六亀特別警備道は54箇所の分遣所(日本橋+53次)+4箇所の監督所(警戒所)+1箇所の駐在所で構成されていたと修正するのが適当?(続く)
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