2007年07月27日
崑崙拗古道−5
【写真説明】左写真はクナナウ社(旧古楼)入口付近。来義林道の終点に登山口があり暫くは急な山の斜面を登らされるが、その後はこのようなかなり広い道がこの旧部落まで続く。畑が見当たらないので、専ら狩猟の為に使われているようだ。二枚目の写真は、クナナウ社に残る高砂義勇隊「戦歿勇士之墓」。この墓に刻まれてのいるのはこれらの文字のみ。写真では判らないが、この墓の基部裏に石板で箱が設えてある。遺髪、爪、指の骨等が安置されていると思う。ライ社の墓の基部にも側面に蓋がある。同様のものが中に安置されているのを子供の時見たことがあると辛初男さんが話してくれた。右二枚の写真はクナナウ社の遺構の一部。
[クナナウ社の「戦歿勇士之墓」]
来義林道終点の登山口からは凡そ四時間ぐらいで、崑崙拗古道とクナナウ社への支線の分岐に辿り着き、そこからクナナウ社までは約一時間、登山口から最初の取り付きを除けば常時道幅が二メートル前後あるよく踏み歩かれた古道を辿ると、そのまま集落遺構に導かれる。
村の入り口から僅かばかり入った右側には嘗て駐在所、保健所等があったと最近の台湾の資料には書かれているが、官舎だったのか住居だったのか判然としない石板を壁にした建物跡が僅かに残るだけだ。これら建物の遺構を見下ろすような形で、高砂義勇兵の墓は建てられている。台湾で入手出来る写真で見た際には、随分小さな墓を想像していたのだが、実物の大きさ(前述)には驚かされた。村自体は入り口から左側に下った斜面にあるようなのだが、草深く住居跡は外からは認められない。建物の遺構を右側に見ながら更に中に入ると、だだっ広い平坦地になっているが、明らかに学校があった場所だと思われる。このまま古道を辿っていくと、次回紹介するチカタン社に抜けていけるのだが、この連絡道は今は殆ど歩かれていない。>(メルマガ「台湾の声」2005年12月23日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
【追記:2007年7月27日】通常旧クナナウ社の高砂義勇隊「戦歿勇士之墓」として紹介されているものは、今回写真で紹介した石板のものである。最近台湾のネット上の然るブログ(←クリックして該ブログへ)を介して、同旧社内に別に「白骨塚」と呼ばれる日本時代に建てられたと特定出来る墓碑状のものが存在(同ブログ内1、7、12枚目写真参照)することを知った。二段の基部を持つ明らかに墓であり、刻まれた文字は既に摩滅し読めないとのことである。旧ライ社の戦歿勇士之墓と相通ずる形状であることから、「白骨塚」の方が元々の「戦歿勇士之墓」で、石板のものは何等かの理由で、戦後再建された可能性がありそうだ。然もなくば、当時駐在していた警察官か眷属の墓かもしれない。尚、鳥居龍蔵コレクション(東京大学総合研究博物館、東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベースの内、「台湾」)の中で、「クナナウ社」の説明を持つ写真は二葉(7227、7414)ある。
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返事が遅くなり申し訳ありません。ここの部分は案内していただいた辛さんの説明そのままです。「遺髪や爪を遺骨の代わりにという考え方は原住民の中に元々あったのでしょうか?」という質問に対しては、多分無かったと思いますが、これへの正確な答えは専門家に委ねるしかありません。(終)