2021年11月27日

《嘉義県の古道》半天古道(梅山郷):「嘉義梅山乾隆民番界碑」

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【写真説明】半天古道は殊更に興味を持っていた訳ではないが、何処かで「民番界碑」のことを目にし是非見たいものだと冀っていた。第32弯から県道を離れ然る廟堂へと繋がる道を入り込むと赤地に「民番界碑」と白抜きされた標示板が立っていた(左写真)。そこから山側に入り込むとビニールに碑文をコピーした幟(下掲写真)が掛かっていたが、実際の碑が何処にあるのか俄かには判じ難かった。訪れる人は明らかに少ないと見えて竹が勝手放題に延びている。碑と思しきものは大きな岩であり(中央写真)、碑文は殆ど識別出来ない(右写真)。台湾のサイトで「民番界碑」で検索すると確実にヒットするが、この単語は通称だ。2014年に嘉義県指定古蹟となっているが、筆者が訪ねたのはその二年後ぐらいだ。文化資産局登録名は「嚴禁匠民越界私墾碑」、ウィキペディアには別称例として「梅子坑生番界碑」との付記があるが、観光用語としては、冒頭の件名に記した呼称が通例だ。筆者が興味を持ったのは開拓民である漢人と生番こと台湾原住民との抗争が実在したことを証明する生きた証だからだ。碑文には「乾隆參拾參年參月」(1768年)の銘がある。日本が台湾を領有することになる約130年以前である。碑文の中に「以大山脊分水爲界山前屬民山後屬番」と漢人開拓民と原住民との活動区域の線引きが極めて単純に定義されている。筆者が想像するに「大山脊分水」とは、雲林県と嘉義県の県境に聳える雲嘉大尖山(台湾小百岳、一等三角点、1,305b)に繋がる稜線(分水嶺)を指していると思う。その稜線の西側(山前)が漢人区、東側(山後)を原住民区として線引きしているということになる。(終り)
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posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | 《嘉義県の古道》 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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