2007年07月20日
崑崙拗古道−4
【写真説明】左写真は、来義村から旧ライ社方面を望んだもの。写真正面に写る山の頂がその地である。川は来義渓、写真の下部に写る橋は來社橋である。この橋の右端から現在の崑崙拗古道の西側入口となる来義林道が始まる。ライ社の原名の漢音表記は「加拉阿夫斯」(tjaljaavus)、漢称は内社。かなり以前は林道の終点まで車で入れたが、今は最初の数キロは車で辿れても、後は相当な悪路で、自転車かバイクで入るか、さもなくば歩くしかない。林道を十キロ近くも歩かされるのは非常にきつい。旧ライ社の遺址は林道脇に残る。中央二枚の写真は、旧ライ社跡に今でも残る高砂義勇隊「戦歿勇士之墓」。三枚目の写真は墓碑を裏側から見たもの。同写真では見えにくいが、「昭和十九年十二月二十六日建之」の文字が刻まれている。台湾では紹介されることは私が知る限り殆ど皆無、増してや現在の日本人には全く知られていないと思う。偶々現在の来義村から旧ライ社への林道とは異なる連絡道の藪が払われた時に訪れることが出来た。約二年前である。その当時、屏東科技術大学により旧ライ社の発掘、整備が行われる予定であったらしいが、先日、来義村の村長さんに聞いたら、まだ手が付いていないとのことであった。つまりこの墓は再び藪の中に埋没している可能性が高い。私がこの墓を訪ねた時、村長さんが案内の方を差し向けて下さった。辛初男という日本人風の名前を持つ方で、自分は長男だったからと説明して下さった。戦後ここは訪れた日本人はあなたが初めてだと言われたが、実際は村長さんも以前日本人の方を案内したことがあると話しておられた。旧ライ社跡は、別な機会に村長さんに案内していただいた。右写真は、旧ライ社跡に残る貯水槽、「中村」の署名があった。村長さん曰く、日本人の作ったものはこのように今でも立派に残っているが、台湾人の作ったものはねえ...
[ライ社の高砂義勇隊「戦歿勇士之墓」]
現在の崑崙拗古道の西側起点は屏東県来義郷の来義林道で、この林道そのものは日本時代の理番道路(原住民警備道)だったものだ。全長13キロ程でその終点が登山口になる。この林道の途中に(旧)来義村(ライ社)の遺構があるのだが、現在台湾では殆ど紹介されれていない。私も来義村の現村長洪嘉明氏に案内して貰い、初めてその存在を知った次第だ。
南台湾の原住民族部落の場合、戦後何らかの理由に拠り平野部に移遷した(或いは移遷された)場合、大概は途轍もなく遠方に移り住まざるを得ないケースが一般的だ。但し、現在の来義村の場合は、嘗て旧村落が存在した標高400メートル程の高台の麓に降りてきただけなので、祖先の地を直に仰ぎ見れるという非常に幸運なケースと言えるのかもしれない。
この洪村長とクナナウ社に残る高砂義勇兵の墓のことについて話をしていた際、ライ社にも同じものが在ると教えられ、それまでその類の紹介を目にしたことがなかった為ひどく驚いた。最初はクナナウ社のものと混同しているのかなと思ったのだが、来義村案内のパンフレットを見せられ、そこに掲載された写真は確かにクナナウ社のものと明らかに異なることが判った。以前は日本人をその墓まで案内したことがあるとおっしゃっていたが、その旧部落との連絡道は最近殆ど歩かれておらず、私自身二度足を踏み入れてみたが、藪の深さに圧倒され途中で断念、その後梅雨の影響で川が増水して渡渉出来ないというようなこともあり、現地に足を運ぶこと五回目にして漸く辿り着いた。
この墓は旧村の最下端に位置し、台湾では写真でもよく紹介されるクナナウ社の高砂義勇兵の墓が高さ二メートル弱、幅六十センチ強、パイワン族特有の一枚岩板の表面に「戦歿勇士之墓」と大書きされているのみであるのに対し、ライ社のものは自然石とコンクリートを組み合わせ縦、横、高さ、各々一メートル程度の基部に角柱の墓標を持つ立派な墓で、墓柱の三面に文字が刻まれている。正面にクナナウ社と全く同じく「戦歿勇士之墓」、裏面に「昭和十九年十二月二十六日」の建立日、建立者たる日本人警部の氏名と「ライ社自助会一同」、正面左側面に「第一回、第二回、第五回義勇隊」として出征兵士合計六名の氏名(内一名の氏名は剥落)が記述されている。>(メルマガ「台湾の声」2005年12月23日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
【追記:2007年7月25日】鳥居龍蔵コレクション(東京大学総合研究博物館、東アジア・ミクロネシア古写真資料画像データベースの内、「台湾」)の中で、「内社」の説明を持つ写真は三葉(7215、7226、7436)あり、これらが旧ライ社の様子を撮影したものだと思う。
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