2021年06月19日
清代八通関古道(中路)−8
【写真説明】協天宮と八通関古道との関係は「安通越嶺古道−2」でかなりのスペースを割いて紹介したが、実際協天宮を清代八通関古道の東側起点とするのが正しいかどうかは未だ判らない。但し、清代八通関古道、即ち明治7年(1874年)の牡丹社事件(征台の役、台湾事件、台湾出兵等々)以降清朝に依り開鑿された三本の台湾東西横断道の中の「中路」(「北路」=蘇花古道、「南路」=崑崙拗古道)の開鑿事実を証明する「後山保障」の扁額は国宝級である。今回訪問した際は協天宮の内外を各々一枚撮影してきたが生憎の雨天、外観は普通の廟堂なだけにくすんだ写真になり残念、思わず頭(こうべ)が垂れる、長さ240a、幅75a、厚み3aの「後山保障」扁額の写真は新たに撮り直したものである。本堂内に中・英・日文で書かれた花蓮県文化局に依る新しい案内板があったので、日本文紹介をそのままここに掲載する:
玉里協天宮の後山保障扁額は木製の扁額で、黒漆の地に金漆で、中央に楷書体で「後山保障」の四字、右に「光緒七年辛巳孟冬吉立」、左には「欽加總鎮銜總帶飛虎左營兼理中路招撫墾務福建即補協鎮府提督呉敬奉納」と彫られ、額縁には金龍の浮彫が施されています。清代・光緒元年(1875)、総兵呉光亮が飛虎将軍を率いて東西山道の工事を行い、璞石閣(現・玉里)に到達し、今の協天宮の所在地に駐留した時、関聖帝君(関羽)の分霊を携えてきた人がいたと伝えられています。光緒7年、後山(旧時の花蓮の別名)に疫病が起こります。呉光亮は関聖帝君に加護を願い、陣地に草葺きの廟を建て、像を作って祀り、「後山保障」の扁額を手書きにしたのが、協天宮の始まりといわれます。後の研究と扁額にある職名から、寄進者は弟の呉光忠であることが分かっています。「後山保障」の扁額は、今では協天宮の宝になっています。清朝末期の国家勢力が東台湾に入った歴史の証拠として、史的意義をもちます。(続く)
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