【写真説明】左写真は、寿山国家自然公園北寿山駐車場出入口脇にある土地公「石頭公」、この下に青泉街に沿いに渡した側溝があり同駐車場との間に小さな橋が架けてある。その下に嘗ての高雄温泉(ETtoday新聞雲、2019/01/08記事より転載)の冷泉(鉱泉、又は冷鉱泉)が湧き出している。中央写真は、その湧水が冷泉である証左であろうと思われる水泉花と呼ばれる麺状の白色物質が側溝を覆っている様子。呼び名は雅だが、昔、何処の溝川でもお目に掛かれたような気もする。右写真は、高雄温泉の露頭と思われる附近の側溝の景観、中央写真と同じ側溝で、前記の駐車場出入口から龍目井方向へ100bぐらいの場所。同写真右側に温泉館が建っていたかもしれない。
打水にしても龍目井にしても全山水源に乏しい中の小さな水源に過ぎない。これでは日本領有後爆発的に増えた人口の水は賄えない。台湾総督府は下淡水渓(現在の高屏渓)から水を引いてくる工事に取り掛かる。明治43年(1910年)起工、大正2年(1913年)、給水開始。実際高雄市民に給水したのは、今も現役、高雄市指定古蹟、登録名「打狗水道浄水池」であり、現在は高雄水道浄水池とか寿山配水池と呼ばれており、場所は、寿山山中、嘗ての寿山館、高雄神社の東側下部になる。。。と此処まで書き出し、もう少し「高雄温泉」を紹介しておきたいと思い直した。Google Mapでは寿山国家自然公園北寿山駐車場入口付近に「高雄温泉遺址」、それより僅かに北側に「高雄温泉露頭」の標記が出て来る。前者の現場には二枚の案内板、「高雄温泉」と「水泉花」が立てられているが、一般のハイカーの目に留まっているかどうかは大いに疑わしい。先ず「高雄温泉」案内板の全訳(原文は中文のみ)である:
日本領有時代、日本人花田伍助が高雄温泉を「発見」した。日本人が編纂した『高雄州地誌』に以下の様に紹介されている:「場所は龍目井より南側約700bに位置し、その実は冷泉である。にも拘らずカリウム、ナトリウム等の鉱物質を豊富に含み、皮膚病、胃腸病に効用がある。」更に曰く、「市街地に近く、田園の趣があり、温泉館の下方から流れ出す一条の泉水には、夏になると蛍が群がり、一家団欒の保養地としては最適である。」と広告文が並ぶ。前記にあるように、冷泉である為、顧客には加熱した後の泉水が供されていた。
「水泉花」の方は以下の説明である。説明は二段に分れているが、後段の方は翻訳が面倒くさそうだったので端折った:
「水泉花」とは、柴山裾野で洗濯する婦女の間で使われていた水中の白い(麺状の)物質の雅語である。柴山は全山サンゴ礁の石灰岩の塊、即ち炭酸カルシウムである。傍を通ると硫黄臭がするが、実際は細菌代謝派生物の硫黄臭であり、決して硫黄泉の証明では無い。
第二行目を何故挿入したのか判らない。兎にも角にもこの説明を読まず、案内板のタイトル「水泉花」だけを見てしまうと、日本人なら、「湯の花」(温泉の不溶性物質の析出・沈殿態)の一種かと忽ち納得してしまうのだが、案内板の説明はそれを真っ向から否定しているのである。いずれにしても、旧高雄温泉鉱泉水と水泉花は学術的根拠は別にしてペアのはずである。その証拠に、Google Map上の高雄温泉露頭は、側溝の中の水泉花の切れ目を目安にして便宜上特定したのではないか?と筆者は勘繰っている。
日本時代の高雄市市街図には高雄温泉は明記してあるが、既に終戦前に軍の通信施設として接収されたので、その後は本当に幻の温泉地となった。多少喧しくなったのは、ネットを渉猟すると、柴山の国家自然公園への昇格計画と期を一にしているようだ。やはりユニークな観光資源が欲しいのだ。それにしてもその後も冷泉は青泉街の普通の側溝に流れ込み続けており、高雄温泉館復活の兆しは見えない。(続く)
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