【写真説明】左写真は、「登山街60巷歴史場域」内の清代古道部分の丁度中間地点、F「サンゴ石の排水溝」の案内板が有る辺りの古道の景観、南側を振り返った。中央写真は、歴史場域内で最高点で最後の案内板、10「清代の古道と日本統治時代の展望道」(同写真右奥)越しに嘗ての打水湾、現在の高雄港側を望んだ。右写真は、中央写真とは反対方向から、登山街60巷方面を望んだもの。旗津-鼓山往復フェリー上からの撮影だが、清代古道を意識していたわけではなく、同写真上側の真っ直ぐな稜線上に写る白色の建物群の内、中央やや左側に写る黒っぽい屋根をいただいた建物(日本時代設営のゴルフクラブと謂われる。高雄人は「小白宮」、ミニ・ホワイトハウスと呼んでいる。国軍管制区域内に付き進入不可)を確認するのが目的だった。清代古道の目的地、大坪頂砲台は同じ稜線左側、裕仁親王が足を運ばれた最高点(「登山記念碑」が建てられた)は逆に同稜線を右側に進む。同写真中央奥のレンガ色の建物群は中山大学構内。そのまま右側に辿ると、裕仁親王のご宿泊地である「壽山館」なのだが、今は同大学職員宿舎に襲われている。
次は初回の投稿記事の中に書き込んだ歴史場域のテーマ解説文の中の「打水湾」関連の遺跡・遺構を紹介する予定にしていた。これは水源地と水路の話になるので『水の古道』でもあるのだが。実は壽山清代軍事古道も打水湾も既に存分に踏査・研究され、ネットを渉猟すれば容易に関連研究論文に往き当たる。それらをベースにして筆者自身で後追いした結果も併せて本ブログで紹介するのも良かろうと思い直した。で、先ずは歴史場域内の壽山清代古道をさらりと紹介し、後このブログ内でどう云うテーマを展開するか?は考えようと思う。
「登山街60巷歴史場域」の最高点には10番目の「清代の古道と日本統治時代の展望道」の案内板がある。その日本語解説の写しは以下の通りである。段落付けは筆者が調整した:
「登山街60巷は、寿山の大坪頂砲台と哨船頭地区の雄鎮北門を結ぶ清代の古道です。
1905年、台湾総督府は皇族が打狗に滞在する際の宿泊所として、寿山の中腹に迎賓館を建設しました。1912年、濱線地区の埋め立てが完了し、大勢の日本人が移り住んで来ました。1918年の打狗市区計画変更図では、登山街60巷の迎賓館に通じる清代の古道が「展望道」と表記され、日本人が休日に登山する際の展望道となりました。当時の皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)が1923年に打狗を訪問した後、宿泊所となった迎賓館は「壽山館」、打狗山は「寿山」と改称されました。
この平地からの眺めは上方の寿山館と同じで、裕仁親王が1923年に見た高雄港を望むことができます。」
以上の解説文から「壽山清代軍事古道」の一つ、哨船頭古道を構築するキーワードが立ち現れる。標高の低い方、詰り、嘗ての打水湾海岸線から打狗山に向かい点在する故地群である。それらはそのまま日本時代の展望道を構成していると云うのが歴史場域最後の案内板解説の意味である。即ち;雄鎮北門(砲台:現存)〜哨船頭(公園有り)〜外国人墓地(現存せず)〜壽山館(一部残存遺構あり)〜登山記念碑(裕仁親王登山最高点:現存せず)〜大坪頂砲台(残存遺構ありとのことだが、国軍管制区域内にあり確認不可)。今回はこれらを列記するだけに留める。追々紹介出来るものは紹介して行く。(続く)
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