【写真説明】壽山清代軍事道路の一本である「哨船頭古道」の「歴史場域」内段、登山街60巷の入口付近の景観を三枚掲載する。住宅街の路地の登り一方の階段である。左写真の左側に写る日本式家屋は歴史場域のトイレ、詰り登山街60巷は歴史場域の西側に沿った路地。中央写真は、歴史場域内の4番目の案内板「壽山清代古道」の案内板が立つ辺りの景観。右写真はその案内板を過ぎ更に登山街60巷上方を望んだ。
「登山街60巷歴史場域」の案内板は前回投稿で紹介したテキストでの解説に加え、合計10箇所、場域内の遺跡・遺構を三色(清代、日本時代、戦後)を使い分けながらダイヤグラムでも紹介してある。各々の現場には更に詳しい写真入りの案内板が設置されている。先ず最下段の広場東側に日本時代の遺構三基、@「高雄築港出張所官舎地区と防空壕」、A「トーチカ」、B「高雄築港出張所官舎の擁壁」があるのだが、それらの紹介はスキップし、先ずは清代開鑿、その後も使われ続けた古道に踏み入ることにする。
前回記事で「歴史場域」の案内板解説を丸写ししたように、今回掲載した写真で判るのだが、既に百三十余年を経た古道は今や住宅街の中の登り一方の狭い路地に替わり果てている。その路地を登り始めて直ぐの場所にC「壽山清代古道」の案内板が立つ。その解説と添えられた古道地図は筆者に取り十分に衝撃的だった。前回に引き続き同案内板解説の丸写しである。段落付けは筆者が調整した:
「清代の打狗山(寿山)には大坪頂砲台を中心として4つの古道があり、学者の研究によりそれぞれ哨船頭古道、塩テイ埔庄古道、内惟越嶺古道、柴山部落越嶺古道と名付けられました。
哨船頭古道は清代の大坪頂砲台の脇にある打狗山兵営の南門を起点とし、南東方向に山を下って寿山館を通り、南に向かい登山街60巷の古道に至った後、更に登山街と哨船街を通り、雄鎮北門砲台につながっています。この古道は、アームストロング砲を山上に引き上げる際にも使われました。
清代の古道は元々土の道で、坂道には研磨して成形したサンゴ石が敷かれていましたが、日本統治時代に階段が作られ、その後も複数回に渡って修繕がなされました。古道の両側にあるサンゴ石の擁壁は、戦後に住民が建設したものです。現在でも、古道の上方のモモタマナの木がある場所では、サンゴ石で作った当初の道の基礎部分が見られます。」
この解説文は注意して読む必要がある。即ち;
・冒頭で四本の古道が列記されているが、全て目的地が大坪頂砲台であることから、本来軍事(軍用)道路、或いは戦略道路であったこと。詰り、「壽山清代軍事古道」と云う様な呼称が古道の成立ちと性格を伝えることになる事。
・解説文の三段目はこれら四本の古道の概説では無く、一本目の「哨船頭古道」に特化したものである事。
・「登山街60巷歴史場域」は、「哨船頭古道」の一部を切取り構成されたものである事。
次回も歴史場域内の「哨船頭古道」に付いて更に説明を加える。(続く)
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