2020年10月24日
出関古道−9
【写真説明】出関古道東段、十份[山|東]段の北側起点の点景三枚。左写真は、台3線から自動車道である郷道60号線を西側に辿った末に往き当たる同道の最高点にある古道との分岐点。中央写真はその峠の自動車脇の意匠。この意匠の中心は、伝統様式に拠る「茶亭」、日本風に謂えば峠の茶屋である。右写真はその峠の茶屋。完全復元なのか修復なのか?は筆者は判断出来ず。但し、大正年間の建立である。
出関古道東段(十份[山|東]段)の南側三分の一を踏査した翌日、同段の北側起点を車で確認しに行った。聖衡宮から県道130号線を東側に下り、台3線に出て北上、大湖郷南湖派出所の僅かに南側から郷道60号線に入り西側に辿ること4`余り、大湖郷と銅鑼郷の境界で丁度峠となり同自動車道は前者から後者へ乗り越し、三義市街地方面を目指す。詰り、この郷道は大湖郷と銅鑼・三義郷を東西に結ぶ越嶺道であり、今は自動車道にとって替わられているわけだ。事実、この峠は、加裡山脈の一支脈、関刀山列の最低鞍部である。と云う事は、出関古道は関刀山列に沿い南北に開削され、この峠が今は自動車道たる東西に渡る越嶺道との交差点になる。この峠が出関古道十份[山|東]段の現在の北側起点になるのだが、郷道脇に古い里程標があり「挑夫古道」と刻まれていた。三義を経由した台湾海峡側の海産物が大湖側に持ち込まれ、逆に大湖側の山の幸が大湖側から三義方面へ渡ったと云うことになる。前者の代表が「挑鹽古道」であり、後者が「挑筍古道」等の機能となる。以上の説明は、十份[山|東]段北側起点にあった解説版から失敬したものだ。これで東西越嶺古道たる郷道60号線の機能は明確なのだが、南北縦貫道である出関古道の機能は未だに判らない。この峠に嘗て有り続けた茶屋が今は復元(或いは修復?)されており、「十份[山|東]段茶亭」と名付けられている。この茶亭の建築様式を何と呼ぶのかは筆者は判らないが、峠の茶屋だ。前述の解説板は実はこの峠の茶屋の縁起を記したものである。その中で茶屋の建立が大正12年(1923年)と明記されている。粗末な小屋掛けが石造製に替わったと意味であろうか?(続く)
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