2020年10月10日
出関古道−7
【写真説明】雲洞山眺望台から約700b地点にある東屋「百壽亭」と、その脇にまだ立ち続ける新百二份山(847b)の三角点、正式には圖根點(地籍四等三角点)である。台湾ネット上に、この山名の別称として「菜寿凸」の表記を見付けたが、こちらが点名かもしれない。余談だが、地籍三角点の埋定、測量は、一等三角点に代表される陸測三角点のそれより早い。第三代台湾総督児玉源太郎治下、民政長官後藤新平の指揮で、臨時土地調査局(左写真に銘有り)を設立、ドイツの測量方法に拠って、地籍(土地戸籍)調査目的で三角測量を開始したのが、明治31 年(1898 年)、明治38年(1905年)に測量を完了させている。当時埋定された三角点標石は約3,300基、その一基なのだが、どんなに新しく見積もっても優に百年を越えている。それにしても「新」を冠したこの山名は悩ましい。では旧名、即ち新無しの山名がありそうなものだが、手元の地図を眺める限り見当たらない。序でに山名の中の「份」に言及しておく。安倍明義の『臺灣地名研究』に依ると、「份(分)」とは、「もともと脳灶(十灶を一份という)を設けた地に因んで名づけられたという。一説には份とは開拓した土地の股份(持分の意)の義であるともいわれている。」「脳灶」の読みは「のう・そう」、「灶」は「かまど」(竈)の意、樟脳の煮窯の事だと思う。尚、竈は「灶」の異体字である。要は附近は日本人が入り込む以前から樟脳精製の小屋が点在していたと謂う歴史点景だ。(続く)
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