2007年07月13日

崑崙拗古道−3

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【写真説明】屏東県来義郷はパイワン族七社区からなる。いずれも沿山公路(屏東県道185線)を境に中央山脈に向かい東側に広がる。来義郷七社の郷公所(役場)は古楼村に置かれている。嘗てのクナナウ社が移遷してきた村である。左写真は古楼村内にあるモニュメント。古楼は沿山公路傍に入口を持つので、台湾の幹線の一つ省道1号線からも近く、従って高雄市からのアクセスも便利だ。但しこれは現在のクナナウ社の話であり、嘗てのクナナウ社が何処にあったかを説明するのは難しい。恐ろしく山の中としかいいようが無い。クナナウ社の位置を視覚的に理解するのに、平面の地図ではなかなかイメージが掴めない。Google Earthの3Dビューを利用すれば旧クナナウ社の台湾南部での位置、山深さ、高雄市・鳳山市等からの距離間等が容易に把握出来る。このダイアグラムはその一例(←クリックして開く:高度を強調)、二つのピーク、北大武山(Taibu Mountain)と南大武山(Nan-ta-wu Shan)を含む中央山脈を高雄市側から望んだもの。山中赤丸で示されたKu-louが旧クナナウ社、Li-chi-li-chi-sheはこのブログで何度も紹介した旧リキリキ社、現在のクナナウ社もリキリキ社も今は、ダイアグラム中央部、山が立ち上がり始める平野部へ降りてきている。昔、日本アルプス3Dトレッキングなるソフトが発売されたことがあり、驚いたものだが、Google Earthはフリーウェア、しかも機能はそんな昔のソフトに比べれば格段に優れている。戒厳令解除から二十年を経たとは云え、嘗ては軍管制下にあった台湾の山々を居ながらにして自由に徘徊出来る、時代は変わったと思う。右写真は、現在の崑崙拗古道の実質的な入口となる来義村(ライ社)にある百歩蛇のレリーフ群。

台湾でも最近マウンテン・バイクでのツーリングがますます盛んになり、私がこれまで紹介した古道にも自転車で乗り込んでくるハイカーが増えてきた。台湾南部の場合、それらハイカーのコースとなるのは産業道路とか林道になり、勢い旧原住民族部落探訪の機会にもなり得る。その中で人気のあるのが、来義郷南隣の屏東県春日郷の(老)七佳(チカタン社)へ至る産業道路と(旧)力里(リキリキ社)を経て大漢山(標高1,688メートル)に至る林道なのだが、クナナウ社−チカタン社−リキリキ社間は古パイワン族歩道の名の通り古来から連絡道があり、クナナウ社から崑崙拗古道を逸れて南下しリキリキ社に至る連絡道は、既に本ブログで紹介してきた浸水営古道に行き当る。このクナナウ社から南下する連絡線も一括りにして崑崙拗古道に含めて語られているケースもある。

台湾原住民族研究に携わっている方にはよく知られた、台北の南天書局から出版されている「台湾原住民族映像:浅井恵倫教授撮影集」(笠原政治、楊南郡等編、1995年)に収録された日本時代の原住民族の写真の殆どが、クナナウ、チカタン、リキリキ、ライの各社で撮影されたものであることも私がこの古道と周辺のパイワン族の旧集落に興味を持った理由である。>(メルマガ「台湾の声」2005年12月23日掲載分の一部を改編)次回へ続く...
posted by 玉山 at 21:45| Comment(6) | TrackBack(0) | 崑崙拗古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
ダイアグラム、地図と合わせて見てみました。来社山、峠山、久保山、句奈山、南久保山、石可見山、力里山、嵌頭窩山は分かりました。それにしても、旧クナナウ社は峠山と久保山の中間からちょっと南にずれた所ですから、あの辺りでは一番高い(1,500m位)と思われる所に位置するのですね。水はどのようにしていたのでしょうか?山から滲み出る水を集めたのでしょうか?台湾は池塘が結構多いようですが、あの水は天水?それとも湧水でしょうか?そのようなものがあったのでしょうか?食料については、原住民にとって山は冷蔵庫のようなものというのを聞いたことがあります。深い山ほど食料が豊かだということなのでしょうね。

峠山ですが、『峠』の字は確か国字だったような気がします。また、『久保』も日本風な言い方ですね。これらは日本統治と関係があるんでしょうね?
Posted by メイウェンティ at 2007年07月24日 22:56
お気に入りリンク中の『台湾国家歩道案内』で正体中文に入ると空撮写真があります。前はなかったように思いますが、ご存知でしたか?
Posted by メイウェンティ at 2007年07月25日 01:04
メイウェンティさん;

旧古楼が確かに高い位置にありますが、山の頂上というわけではありません。衣丁山の裾野と言った方が判り易いかもしれません。旧古楼に到る道脇には立派な石積みの排水口(多分日本時代のもの)が残っていたりしますので、何処かに水源はあるはずです。旧古楼は七佳渓の上流に位置し、そこに流れ込んでいる支流は何本かありますので、それらの源頭を利用していたかもしれません。

「峠」は国字ですから、台湾では苦労して印刷しています。面倒なので、実際は山を外してカードを意味する上下を組み合わせた漢字を充てているのが殆どです。ということは、日本時代に「峠」、又は「峠山」と呼んでいたのでしょうが、「峠山」では意味不明ですよね。古道の途中に登山口が付いていて、以前はよく登られていた山です。久保山は確かに日本風な名前で、恐らく日本時代から同じ山名だったと思います。(終)
Posted by 玉山 at 2007年07月25日 11:10
メイウェンティさん、もう一つコメント忘れていました。「台湾国家歩道案内」のサイトでは以前から空撮写真は供されていました。日本語のウィンドウズで見ると、写真の説明が全部化けてしまうので苦労しますが。(終)
Posted by 玉山 at 2007年07月25日 11:12
空撮写真、そうだったのですか。あのHPは何回か見ていたのですが、何処を見ていたのでしょう。とんだお先走りで恥ずかしいです。
文字化けの所には写真の場所の説明などがあるのでしょうね。写真の場所が特定できればもっと面白く見られるでしょうに、残念ですね。

パイワン族秘道、崑崙拗古道、浸水古道は其々がどこかでつながっていると言う理解で良いのですよね?その昔人々が頻繁に行き来していた事を想像すると何だかドキドキしてしまいます。あの山に豊かな暮らしがあったのだなぁと。山の東側にもとても興味があります。私は列車で通ったことがあるだけですが、西側に比べて原住民の言語の地名が多いような気がしますので。どうしてなのでしょうか?中央政府からは一番遠い所だからあまり重要視しなっかたから等と考えてみましたが。

P.S. 国家歩道案内のHPを見たら、の崑崙拗の『拗』は手偏ではなく、土偏で書いてありました。そうすると、読み方はao(4)だけですね。
Posted by メイウェンティ at 2007年07月25日 22:03
メイウェンティさん;

「パイワン族秘道、崑崙拗古道、浸水古道は其々がどこかでつながっていると言う理解で良いのですよね?」−はい、そういう理解でいいかと思います。道に名前を付けるので煩わしくなるだけです。旧社と云っても、その殆どが戦後経済的な理由で移遷したわけで、その意味では旧社は「過疎」区域です。そのうち、わざわざ台湾に来なくても日本でも十分「古道」歩きが可能になる時代が来ると思います。以下の産経新聞の「やばいぞ日本」シリーズを参考にして下さい。(終)

http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070715/ssk070715000.htm

Posted by 玉山 at 2007年07月25日 22:44
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