2020年07月25日
虎頭埤−4
【写真説明】虎頭埤の周辺風景はこのくらいにして、そろそろ台湾最初のダム(台湾国語では「水庫」)の話に移ろうと思う。ダムと言っても発電所が併設されているわけではなく、虎頭埤を囲む堤防(台湾国語では「壩体」)と埤の水量を調節する大掛かりな機構から成り立っている。今に見るこれらの構造物の多くは日本時代の構建であるが、灌漑用水貯蔵機能としてのダムの先駆けは、道光26年(1846年)迄遡る。その後、同治2年(1863年)に拡張工事を行っている。正面ゲートは埤の最南端に付いており、ここを潜った後、右回り、つまり東側に堤防脇の歩道を歩き出すと、少なくとも三つの日本時代の遺物に出会う。先ずは左写真の堤防に沿い敷設され鎖を渡した欄干、日本時代遺物第4号である。
中央写真は街灯、日本時代遺物第5号である。何故これが日本時代に敷設されたと言えるか?と謂うと、同じ物を高雄市内二箇所で目撃し、高雄市市職員から説明を受けたからである。場所は、鼓山洞、日本時代の戦争遺跡を観光資源として整備(これを「高雄市軍事遺址観光」)している施設の一つ、元々は鉄道部工員の為の防空壕、戦後は国民政府が引き継ぎ白色テロに大いに利用された。今の台湾ではその戦後の暗黒の歴史まで観光客にきちんと説明する時代となっている。
この鼓山洞は高雄市の裏庭、今は通称柴山の東側山裾にあるが、元防空壕入口上部に階段が付いておりその階段の途中に電柱と抱き合うよういして古い街灯がある。説明員に依ると、大正12年(1923年)4月、昭和天皇が摂政で在らせられた当時、所謂「台湾行啓(ぎょうけい)」に併せ敷設されたそうだ。同じ物が当時の高雄神社跡にも残っているとのことで、後日確認しに行った。台湾行啓の期間は同年4月12日〜5月1日、高雄市は4月21日のご訪問であった。全台湾の視察地は62箇所、祝賀行事は232回挙行されたそうで、同様の街灯は台湾各地に起立していたはずだ。筆者自身は同市旗山区市街地内でも目撃したことがある。
又、これら欄干と街灯が同時に残っている同じ埤畔には、通常「(台湾国語では「壩体重修碑」と呼ばれる再建記念碑が残っている(右写真)。日本時代遺物第6号である。漢字平仮名混じりの行書体であり、筆者では余りに達筆過ぎてその全文を読み取れず。辛うじて読み下せたのは以下の通りである。〇は文字は確認出来るが読めなかった部分、●は石碑に亀裂が入り文字が脱落している部分、( )内は読み下しに自信の無い部分である:
明治三十九年三月南臺
灣劇震の際本堤防を破
壊(せ使る)同年六月改築の●
を○○十二月竣工す
臺南廳
今に残る堤防と水量調節機構の大部分は、この1906年の再建時の物がベースになっていると思われる。以上紹介した三点の日本時代遺物が集中する虎頭埤南東端から撮影したパノラマ写真を添付しておく。(続く)
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