【写真説明】松原駐在所を過ぎ古道約10.5`地点に至ると、天池山荘の物と同じデザインの石柱が古道脇に頭を覗かせている。実はこちらの方は2017年10月に能高山を目指した時に目撃、写真に収めていたのだが、当時はそれが水準点と云う知見が無く、但し、以前八通関古道東段で目撃したことのある石柱と同じデザインであることには気付いていた。八通関古道東段起点から蕨駐在所間の通称「瓦拉米(蕨の日本語漢音訳)歩道」間に四基の水準点標石が残っているのはハイカーには良く知られており、筆者も最低二基は確認している。「総督府遞信部」の刻字があるので、地籍水準点でもなく陸測水準点でもないのだが、その時点では、八通関越嶺警備道に通信用電線が張り巡らされていた証拠だと勝手に思い込んでいた。実際は水準測量用標石であり、陸測水準点標石と同じく標石頭部に半円球の突起がある。
ここでも、メルマガ『台湾の声』への投稿記事からの抜粋を追加しておく:
実は、能高越嶺古道西段にはもう一基陸測水準点標石が現存しているのを、天池山荘からの下山時に確認した。点名は「深堀山西南」、標高約2,800メートル。「深堀」とは、明治31年(1898年)、「中部線蕃地探検隊」を組織して入山し、その後、セデック族に殺害された深堀安一郎大尉以下測量員、林学技師等14名に因む。現在、深堀山と深堀瀧として地名に残る。国家歩道に指定され林務局による案内板が豊富な能高越嶺古道脇に立っているのだが、ここには残念ながら何の表示もない。
実は陸地測量部は、今は国家歩道に指定されている能高越嶺道路を始めとする中央山脈越えの警備道路の測量も実施している。当時はこれらの道路が立派な幹線道路だった証拠である。能高越嶺道路全段の測量が完成したのは、大正13年(1924年)辺りだと思われる。つまり、筆者が遭遇した二基も直に百年古蹟の仲間入りである。もう一つ余談になるが、現在、台湾中央山脈を横断し東西海岸都市を結ぶ国道は5路線、この内、日本時代の合歓越嶺道路を襲って建設された中部横貫公路(通称「中横」)の最高点は武嶺、台湾の冠雪体験スポットとして著名だ。標高3,275メートル、日本でこの標高を有するのは富士山のみ。日本時代、佐久間左馬太とタロコ戦役に因み「佐久間峠」、「佐久間越え」と呼ばれた地点である。
三角点柱石と水準点柱石の外観上の大きな違いは、前者が正角柱で各辺の面取りが小さく、柱石の頭の平面の中心に十字が刻まれているが、後者の面取りは大きく、少し離れた所から見ると、円筒形に見える。加えて水準点柱石の頭は平面ではなく、中心に半円球の突起があることである。この半円球の突起は、測量用の標尺(ものさし)を立てる機能的なものだが、大きな面取りと合わせ、水準点柱石は実に優美なデザインになっている。月並みな表現だが、三角点柱石は男性的、水準点柱石は女性的である。
台湾でも特定山域のハイカー向けの登山地図は販売されている。筆者の手元にあるのは上河文化出版社『台灣百岳導遊圖:能高越嶺』であるが、今回紹介した「深堀山西南」水準点は同地図上に表記があるにも拘らず、「能高」水準点の方は無表記である。ここら辺りも三角点との差である。(終り)
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