2020年03月14日

能高越嶺古道−33:能高駐在所−2:「能高」水準点

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【写真説明】天池山荘のトイレの傍に頭を覗かせている、大日本帝国参謀本部陸地測量部(略称陸測、現在の国土交通省国土地理院の前身)埋定の一等水準点標石。2019年10月以前は全く目に留まらなかったのが不思議である。尤もその時ですら、これが日本時代の遺物であることは即座に判断出来ても、何故元駐在所前に水準点が存在するのか?無知な状態だった。それで当時撮影したのは、今回掲載の1枚のみと云う杜撰さに相成った。今回の投稿に抜粋した記事を書き起こすに至り、サイトを渉猟し漸く日本時代の台湾に於ける測量事情の全体像が判って来た。現時点で台湾に現存する日本時代埋定の水準点一覧は、本ブログ左側メインメニュー「台湾現存水準点一覧」からファイルをダウンロードして欲しい。

最近、メルマガ『台湾の声』に日本時代の台湾測量事情を投稿する機会があったので、以下、水準点に関し記した部分を抜粋しておく:

さて、台湾で持て囃されるのは三角点である。これに対しもう一つの測量基準点である水準点の方は事情が異なる。台湾サイト内の情報量も圧倒的な差がある。筆者自身、日本時代埋定の水準点標石は最近まで全く目にする機会がなかった。三角点はその測量方法柄、見晴らしの効く山の頂上や平野部の高台に埋定され、特に山間部に埋定された標石は開発の波に揉まれにくいのに加え、上述したように大量の標石が埋定されたので、良く残存している。これに対し水準点標石の方は、これもその測量方法柄、主要幹線道路沿いに埋定されていったので、その後の道路拡張等の開発の波に没し損壊、消失していった事情がある。

三角測量と同様、土地調査局の水準測量は陸地測量部に比べ早く、明治35年(1902年)には台湾海峡側平野部の水準測量を完了させていた。他方、陸地測量部は、大正3年(1914年)、水準測量を開始。昭和11年(1936年)、台湾全島の測量を完成させた。いずれも、水準原点は基隆港の平均海水面である。当時埋定された調査局の地籍水準点標石は約450基、陸測水準点標石は600基弱、これらのうち、現存が確認されているのは、前者が10基、後者は50基程度だそうだ。驚くべきは、これら現存の水準点標石の全てを現場確認する台湾人がいることだ。最近になり、筆者自身意外な場所で水準点標石二基に遭遇する機会に恵まれた。

筆者六十一歳の誕生日を目前に控えた去る十月、日本時代「三高」と呼ばれた山、新高山(現在の玉山主峰)、次高山(同雪山主峰)、能高山主峰の内、筆者未踏の能高山へ登る機会があった時である。能高山への登山は、『台湾の声』で紹介済みの台湾有数の古道の一つ、能高越嶺古道の西段を利用する。登山基地となるのが、台湾では玉山の登山基地「排雲山荘」に続き、食事を提供する二番目の山小屋である、「天池山荘」である。林務局と台湾電力が共同管理している天池山荘は、2015年新装、日本家屋を模した外観になったのは、日本時代、当地に能高駐在所、ならびに能高神社(?)があったからだ。今でも山荘横に当時の弾薬庫が残る。天池山荘自体は過去何度も訪れているが、今回初めて山荘前の広場脇に花崗岩の石柱が覗いているのに気付いた。見るからに日本時代に設置された石柱には「水準點」と刻まれていた。後で判ったのだが、点名「能高」の陸測一等水準点である。山荘の標高は2,900b弱もある。
(終り)

posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☁| Comment(0) | 能高越嶺古道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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