【写真説明】天池山荘の前身が日本時代の能高駐在所であることは、このブログ並びに弊別ブログ「台湾百岳」で繰り返し説明した。今現在は天池山荘の由来を説明した林務局の案内板が山荘敷地内に二種立っているので、ハイカーの誰もがその歴史を認識出来るようになっている。筆者自身は当時の同駐在所の名残りは、同山荘の西側出入口(屯原側)脇に残る弾薬庫だけと認識していた。2019年10月の能高山登山の際に、弾薬庫に加え、更に二件の遺物を「発見」した。発見を括弧付きにしたのは、最近になり新たに出現したのでは無く、元々現地に有ったのだが、迂闊にもこれまで気付かなかっただけなのだが。この古写真にあるように、当時の造りは壮大である。所謂総檜造り、檜御殿である。昭和5年(1930年)に勃発した霧社事件で焼け落ち、翌年新装された写真と思われる。現在の天池山荘はその敷地をそのまま引継いでいる。その敷地を前後左右で囲っていた石垣の相当部分がそのまま残っているのに気付いた。左・中央写真は山荘正面広場を支える石塁、右写真は山荘裏側を撮影。ところで、当時は、敷地内に神社が設けられていたと云う記事を何処かで読んだことがあり、筆者のブログの中でもそれを能高神社と説明した記憶があるが、台湾サイト上でその証拠は探し当てられずにいる。譬え嘗て当地に神社があったにせよ、能高神社の呼称は誤りである。と謂うのは、能高神社は別に存在し、在処は、埔里市街地、現在の台湾地理中心、虎子山頂上が元々の建立の地である。(続く)
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