2019年11月23日
李棟山隘勇線−8:故桃園廰巡査渡邉要之墓
【写真説明】この墓碑は往路では行き当たらず、復路の際探し当てた。現代の古道から外れた場所に佇んでいたはずだが、どうやって辿り着けたのか?記憶に無い。場所は李棟山頂上西側下、大混山古道と八五山古道の分岐点辺りだ(左写真)。李棟山事件に因む日本人の墓碑が残存しているのは聞いていたのだが、筆者は長らく勝手に集合墓地を想像していた。佐久間左馬太の五箇年理蕃事業計画の著名な推進例である「タロコ戦役」時の日本軍集合墓地が現存しているからだ―尤も一般人が現地を訪ねるのは山が深く無理なのだが。李棟山の場合、実際現存しているのはこの一基だけではなかろうか?とも考えたりもする。墓碑中央部分「故桃園廰巡査渡邉要之墓」の刻字は百年を経ても明瞭だ(右写真)。左側は出身地の刻字「宮城県志田郡鹿島台村」と辛うじて読める。右側には「大正元(年)( )戦死」と読めるが( )の部分は「年」を含め墓碑が欠けている。恐らく死亡月日と予想される。これで李棟山事件の第二次攻防戦、即ち太田山事件時に落命されたのが判る。台湾総督府文書に依ると、同氏の場合、大正4年(1915年)4月13日付けで、他199名と共に靖国神社に合祀されている。それでは、何故渡邉氏の墓碑のみが現地に存在しているのだろうか?(続く)
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