2019年10月05日
李棟山隘勇線−1
【写真説明】左写真は大混山古道入口に立つ指導標、2016年5月の踏査、それ程遠い過去の話ではないのだが、この入口にどのようにして辿り着いたのか?明瞭な記憶が無い。新竹県横山郷内湾、尖石を通過した後の順路を当時撮影した写真を手掛かりにしてみても印象に乏しい有様。中央写真は、古道入口から暫く続く竹林。右写真は大混山への稜線上の古道の一風景で幅広な路線である。本ブログの第一投稿記事「六亀特別警備道(扇平古道)−1」の中で、隘勇線を「物理的には山中百五十メートル幅で草木を払い、道路を通し鉄条網を張り巡らし。。。」と説明したが、当時はこの古道を含む稜線が丸裸にされたことが想起される。
久々に土の古道に戻る。
先ず、今回のカテゴリー名中の「李棟山」の「棟」について。台湾では[山/東](山偏に東)の漢字を充てているケースが多数派であるが、この漢字はIMEパッドでもWiktionaryでも出て来ないので、今後も棟を使い続けることをお断りしておく。日本時代の地形図上表記は[山/東]になっている。尚、李棟山は一等三角点が埋定された台湾小百岳の一座、新竹県尖石郷と桃園県復興郷の境界上にあり加裡山山脈に属する。
又、今回のカテゴリー名、即ち古道名を何にすべきか?少し悩んだ。筆者が実際踏査した部分は、その古道が大混山山頂直下を通過するので大混山古道と通称されている。この段を李棟山古道と呼ぶ向きもある。筆者の手元の『台灣全覧』では今回のカテゴリー名に選択した「李棟山隘勇線」の表記になっていた。既に本ブログで投稿済みの「霞喀羅古道−9:李棟山」で紹介した台湾総督府理蕃史上最大の遺構である鉄筋コンクリート製堡塁をその頂上に擁する李棟山を取り巻く古道は以下の四本があるが、図絵無しでは文字の羅列になり何のイメージも湧かないので、ネット上の然る書刊案内に添付されていた概念図(1)を拝借した:
・大混山古道
・八五山古道
・高台山・島田山古道
・泰雅(タイヤル)古道
これらを包括し且つ古道の由来を明らかにしたのが、台湾総督府とタイヤル族―最も伝統的と謂われる四大族群、日本時代呼称で;前山マリコワ(ア)ン蕃、後山マリコワ(ア)ン蕃、ガオガン蕃、キナジー蕃との三次、四年(1910〜1913年、明治43年〜大正2年)に渡る激烈な武力衝突(前掲投稿記事参照)である「李棟山事件古道」と云う呼称である。更に、第五代台湾総督佐久間左馬太発動の「五箇年計画理蕃事業」(1910年、明治43年発動)作戦推進の一環である、李棟山を含む現在の桃園県と新竹県に跨る実質タイヤル族掃蕩作戦の様相を呈した戦場と云う意味での「桃竹隘勇線」と云う呼称がある。佐久間左馬太と五箇年計画理蕃事業に関しては、既に本ブログの各処で言及したので検索欄を利用して頂きたい。又、隘勇線とは要は原住民攻撃に対する防衛線であり、日本領有以前から存在した。本ブログの初回投稿である「六亀特別警備道(扇平古道)−1」に概述したので、そちらを参照して欲しい。
台湾総督府が最終的に原住民管制の為の警備道として警察機構(=駐在所)を配して行く前段階として、武力抗争の舞台になった稜線上に張り巡らした隘勇線が後の警備道、総称としての理蕃道へ変遷して行ったはずだ。李棟山事件古道は既に百年を超えた古道であり、且つ古戦場集合体であることが、これから紹介していく古道の特徴である。
この概念図(2)も台湾ネット上で見付けたものだが、前掲のそれと比べると隘勇線(隘勇施設)遺構の在処が詳しい。李棟山事件古道中、最も砲台、分遺所が集中しているのが、大混山古道、即ち李棟山隘勇線上であることが見て取れる。これらの遺構はタイヤル族との衝突を前に短時間で築かれたにも拘わらず、その意味では手付かずと云う表現が大袈裟では無い状態で残存していることが驚異的である。それぐらい今でも山深い。
今回の古道踏査は2016年5月、大混山古道入口から李棟山頂上の往復のみ、朝7時に出発、昼過ぎ3時に同入口に帰り着いた。各遺構の確認は雑誌『台灣山岳』(101号、2012年4/5月)「日據時期百名泰雅勇士與兩千名日軍的血戦譜/桃竹隘勇線・李棟山事件」中の写真に頼った。この特集のタイトル日文訳は「日本時代百名のタイヤル族戦士と二千名の日本軍の血戦録」、数の圧倒的な違いを強調したものである。
大混山(標高1,541b)を起点に李棟山山頂(同1,941b)迄の稜線上に集中している隘勇施設遺構を概念図(2)と『台灣山岳』記事から拾い出してみた。筆者は踏査の際にこれら全てを確認することを目標にした:
・大岡隘勇分遣所(砲台)
・金子隘勇分遣所
・佐藤隘勇分遣所
・給水隘勇分遣所
・八五山隘勇分遣所(砲台)
・太田山隘勇分遣所(砲台)
・故桃園廰巡査渡邉要之墓
・李棟隘勇監督所(監管所)=李棟山古堡(砲台)
桃竹隘勇線上に設営された監督所は13箇所、分遣所147箇所、五箇年理蕃事業下、全台湾に設営された凡そ三分の一を占めているそうだ。この地のタイヤル族に対する実質掃蕩戦の苛烈さが伺える。(続く)
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