2019年09月28日
『水の古道』隆恩[土/川]−5:「永済義渡碑記」
【写真説明】左写真は南投県名間郷濁水村福興宮にある「永濟義渡碑記」、中央写真は同県竹山鎮社寮里紫南宮にある同じく「永濟義渡碑記」、どちらも光緒5年(1879年)の銘を持ち、濁水渓北岸(右岸=福興宮)と南岸(左岸=紫南宮)間の義渡設営の顛末を記してある。碑文は殆ど同じであり、双つ乍ら国定古蹟である。前回投稿記事で述べた日本人に依る濁水橋竣工(昭和9年・1934年)を以て永済義渡は約四十年の役目を終える。右写真は、社寮紫南宮本堂前の賑わい。
事の発端は此の様なものである。国道(高速公路)3号線を高雄方面から北上し南投県名間インターが近くなると、高速道路右手に斜めに傾いた高圧線鉄塔が見えて来る。これが1999年の所謂九二一地震の証拠物件の一つであることは知っていた。同時に、更にその奥に水力発電所の水管が見えている。筆者の興味はこちらの発電所の方であり、立ち寄るのに然程時間も掛かるまいと云う理由で現地に足を運ぶことを延ばし延ばしにして来た。同じく延ばし延ばしにして来た苗栗県三義郷の名峰火災山への登山を終えた帰りにこの宿題をやっつけてしまおうと、手元の『台灣全覧』の名間市街地附近の地図を見ていた。
国道3号線名間インターを降りると直ぐに省道3号線に当たるがここで左に折れると名間市街地に入る。そのまま省道を進むと省道16号線と交差するが、その交差点付近に九二一地震関連の啓蒙施設三箇所の表記がある。ところがその北側に高速道路から見えているはずの発電所の表記が無い。代わりに目に飛び込んで来たのは、九二一地震紀念関連施設の省道3号線を隔てて向かい側に福興宮の表記があり、その隣に「永濟義渡碑」と併記されている。それで、発電所、九二一地震は即座にスキップすることに決めこの国定古蹟を探すことにした。
『台灣全覧』にて福興宮は広い境内を持つ大振りの廟をイメージしていたが、実際は山門から廟への狭い一本道の両脇は民家が立ち並んでおり、しかも工事中だった。廟堂の内外を探してみたが見当たらず、最後は山門脇に店を構える檳榔売りの男性に尋ねると、以前は廟の外にあったが今は内側に移動してあるとの明解な返答、もう一度廟内に引き返し子細に探してみるが見付からず。その時分廟脇で煙草を吹かしていた男性に石碑の在処を問うと、廟の横に併設された社務所を無言で指差す。帰り際同じ男性に謝意を表すると、同じ碑が紫南宮にもあると教えてくれた。この時点で、何故同じ碑が二つの廟にあるのか?その理由は全く見当付かず。納得したのは、福興宮を含む一帯は伝統的に北岸と呼ばれていることを知ってからである。これで紫南宮が南岸にあることを反芻した上で、これら二つの石碑の間を渡しが往復するイメージを遅まきながら描く始末であった。
台湾を代表する廟は何処か?知見は無い。但し、外国人である筆者でも竹山(又は社寮)紫南宮を一度訪れれば、ここが台湾有数の集客力、詰り、集金力を誇っているのではないか?と容易に想像出来るぐらいの熱気に溢れている。紫南宮の縁起は土地公の親分みたいなものらしいから、廟本体は小振りだ。だが廟を取り巻く食い物を主体にした出店群と更にそれらを何重にも取り巻く駐車場群は圧巻だ。初めて訪れたのは八通関古道社寮段踏査の途次である。その時に廟堂右手に小屋掛けされた古碑を看ており写真にまで収めたのだが、福興宮で紫南宮にも同じ石碑があると言われてもピンと来なかった。それで二回目は『水の古道』の踏査の為と云うより、紫南宮で看たものが義渡碑であったかどうか?の再確認の為だけに立ち寄った。ところで、今回は紹介を控えたが、紫南宮周辺は清代・日本時代古蹟の宝庫である。(終り)
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