2019年09月21日
『水の古道』隆恩[土/川]−4:濁水橋
【写真説明】左・中央写真は日本時代架橋の「濁水橋」の北岸(右岸)側に、獅頭山を背に起立する橋柱遺構。集集攔河堰沿いに集集橋を介した省道3号丙線脇にあり、今は歴史遺産として公園仕立てになっている。南岸(左岸)側橋柱は撤去されており、「吊橋頭」と云う地名だけが残る。右写真は橋柱上部に刻まれた銘。竣功年月も「濁水橋」と同じ面に刻まれていたが、今は殆ど判読不能な状態迄に破壊されている。下掲写真は、南岸吊橋頭に設けられた展望台から橋柱(同写真中央部に微かに写る)を含む北岸を望んだ。この展望台、集集攔河堰と濁水渓、加えて集集大山を始めとする日月潭を取り巻く山並みの絶好の眺望台だが、今は訪れる人も殆どない。そもそも展望台入口すら判り難くなっている。尚、獅頭山は吊橋遺構附近から700段近くの階段が設営されており頂上迄登れるが、今回筆者は遠慮した。
『水の古道』隆恩[土/川]−1か、或いは八通関古道竹山段−16:「開闢鴻荒」碑の投稿の際に、この日本時代架橋の吊橋遺構を紹介する積りだったが、敢えてそれをしなかったのは、筆者が嘗て撮影したはずの同遺構の写真を探し出せなかったからである。それで、隆恩南北圳分岐点を踏査した後、再度撮影する為にそのまま集集攔河堰と並列する集集橋を越し濁水渓対岸(右岸・北岸)に渡った。そこは「開闢鴻荒」碑(下段)と濁水橋遺構(上段)をテーマにした謂わば立体歴史公園に設えてある。以前は気が付かなかったのだが、橋柱上部正面には雄渾な「濁水橋」の銘があると同時に、橋柱下の恐らくは「昭和九年六月竣功」(1934年)と刻まれていた銘は「竣」以外は殆ど判読出来ないように削り落されている。
この橋梁古蹟の公園内の解説「濁水橋遺跡」(中英文)の拙訳は以下の通りであるが、何故、筆者がここに濁水橋遺構を紹介することになったのか?その理由が良く書かれている。[ ]内は筆者註:
【集集吊橋、別称濁水橋[日本時代も双方称されていたか?は疑問。集集吊橋の呼称は現在の集集橋竣工後ではないか?]の前身は光緒18年(1892年)設営の「永濟義渡」[案内板上は「永」の代わりに「長]の文字が使われているが誤植]である。1934年(日本昭和9年)、この無賃渡しを廃止、代わりに全長441bの鉄線橋が竣工、「濁水橋」と命名、竹山、社寮一帯から集集、水里、台中方面への重要ルートとなった。竣工後の初期は重量制限の為、人と車両の通行が分離されていた。民国54年[1965年]、名間と竹山間に名竹大橋が開通、更に民国68年[1979年]、集集大橋も開通後は、濁水橋は[その約半世紀に渡る]役目を終了、現在は北岸に残る橋柱が当時の威光を証明している。
註:台湾に於ける初期の渡しには、官営である官渡と民営である民渡の二種が存在したが、両方とも欠点があった。官渡の方は課徴金を徴収され、民渡の方は強請・集り・強盗、時には落命の危険もあり、どちらを選択しても一般民は困窮していた。そこで有志が発起し「義渡」を設営してから後は以上の弊害は解消された。】
「八奨渓義渡」の投稿記事の中では、「義」は「公」に対する語であり、「無賃」の意味と書いたが、この濁水橋遺構の袂に立つ案内板の説明がより明解だ。やはり「義挙」の義なのだ。
いずれにしても、本稿の纏めとしては、前カテゴリーで詳述した八掌渓を介した「道将圳」、「八掌渓義渡鉄線橋」、「八奨渓義渡」の関連性が、ここ濁水渓でも「隆恩圳」、「濁水橋」、「永済義渡」と云う関係で再現されていると云う意味である。(続く)
この記事へのコメント
コメントを書く