2019年08月31日
『水の古道』八奨渓義渡−6
【写真説明】八奨渓義渡公園内に小屋掛けしてある「八掌渓義渡記念碑」(左写真)は殊更日本式漢字の「記念碑」を充ててあり、中国式の「紀念碑」では無い。しかもこの碑は元々は別々に建立されたものを合体させたようにも思える。具体的には、石碑本体が道光年間の「八奨渓義渡碑記」であり、基部が日本時代の「八掌渓義渡鐵線橋(重修碑)」である。道光年間のものは、建立の期日がまだ明確に読める。他方日本時代のものは向かって右側に年号、左側に月日が銘記されているが、摩耗が激しく漸く紀元節年号になっているのが判る程度である(中央写真)。この基部は元々「八奨渓義渡碑記」のものであり、後年書き込まれた可能性もある。但し、基部裏側の銘はまだ鮮明である(右写真)。尚、日本時代の鉄線橋竣工は、初代が大正12年(1923年)、修復されたのが昭和15年(1940年)、今に残る記念碑は後者のものである。
八奨渓義渡公園内の案内板に加え、彌陀禅寺の駐車場にも義渡の案内板がある。
「八奨渓義渡」(Bajiang River Charity Crossing、渡し場)と中・英・日文で記されたこの案内板の日文解説をそのまま掲載することにしてこのカテゴリーを閉じる:
「八掌渓(旧称:八奨渓)の渡し場について、諸羅山(嘉義市の旧称)以南は5箇所あり、中の4箇所は西側に接近し、水上郷に位置するが、保存されていなかった。東側に接近する渡し場は八掌渓北岸にあった弥陀寺西方の500メートルに位置し、現在の八奨渓義渡口であるが、当渡し場の設立時期は不明だ。
清道光27年(1847年)、地元の紳士及び耆老(尊敬されている年寄り)が商議、協力し合い、夏と秋の雨が多い時期に、購入した畑の貸賃で給食さらに宿を提供することによって、人力を雇い、対岸同士を渡す朝晩の往復輸送を行っていた。同年の10月に、記念としてその物語が刻まれた石碑「八奨渓義渡碑」を渡し場の北側に設置した。」
この解説に加え、台湾ネット上でも「弥陀寺西方の500メートルに位置し」は共通した説明である。つまり彌陀禅寺より下流500b北岸と云うと丁度道将圳取水口辺りとも思えるのだが、付近にそれらしき案内は見当たらない。いずれにしても、道将圳と義渡は繋がるはずである。(終り)
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