2019年07月27日
『水の古道』八奨渓義渡−1:道将圳−1
【写真説明】嘉義市市街地南端、西側軍輝橋と忠義橋とに挟まれた八掌渓の両岸は親水公園として整備されている。これら二架橋は幹線自動車道であるが、その間八掌渓親水公園施設として彌陀映月橋が架けられている(左写真)。彌陀の由来は、この橋の北東、八掌渓右岸にある1752年(乾隆17年)建立、日本時代の嘉義八景の一つ、名刹彌陀禅寺である。中央写真は、親水公園内八掌渓左岸側から固定堰(と呼べるのかどうか?自信無し、『台灣全覧』には「道将圳攔水堰」)とその奥突端に位置する道将圳取水口付近(青いペンキ構造物)を望んだもの。同写真右に彌陀映月橋が写る。その道将圳取水口付近も公園仕立て(右写真)になっており、同写真中央に写るプレートに道将圳の紹介が記されている。以上の位置関係はこのダイヤグラムを参照にして欲しい。
嘉義県、嘉義市は個人的な事情で良く足を運ぶ場所である。嘉義の古名が諸羅であることは大概の台湾人が知っていると思う。ウキペディア中文版の「諸羅県」の項には、1684年(康熙23年)〜1787年(乾隆52年)とあるが、同項を読み込むとその全期間が諸羅=現代の嘉義では無い事が判る。諸羅県の首府が諸羅山=現代の嘉義市に移遷したのは、1704年(康熙43年)である。いずれにしても古い歴史を擁しているのだが、最近になるまで殊更な事蹟を目標に歩き廻ったことが無かった。筆者にとり嘉義とは何はさて置き新高山(玉山)の眺望地であり阿里山森林鉄道の起点だ。
嘉義県全体に日本時代建設の灌漑水路が縦横に巡らされているのは、国道1号線か3号線を下って少しばかり車を走らせれば直ぐに感得出来る。或る一日、「台湾地理百科」シリーズ『台灣的古圳道』(遠足文化出版)に載せられた道将圳を紹介した二枚の写真、取水堰(台湾では「攔河堰」)と同水路に渡された日本時代架橋の糯米(モチゴメ)橋を探す可く、嘉義市市街内を流れる八掌渓岸の親水公園に出掛けた。因みに、糯米橋とは総称であり固有名詞では無い。セメントの無かった時代に糯米を混ぜてセメント代わりの結合材として建設に使われていたもので、台湾には様々な行政単位レベルでの古蹟指定の糯米橋が現存する。
八掌渓親水公園は、何処の親水公園も大概同様の、そこを常の運動・散策等習慣の場としている生真面目な人々と筆者のように尋常為らざる事物に興味を持つ人以外には、延々と歩かされる退屈には耐え得無い空間である。割と天気が良くそれだけに暑く、しかも車を駐車したのが、道将圳取水口がある右岸では無く左岸、親水公園を映えさせるべく建設されたモダンなその名も彌陀映月橋を渡らされた。何故有難き「彌陀」の名を冠するのか?は橋を渡っている時分は判らなかったが、由緒正しき命名であることは暫く後に判る。しかも右岸側は未だ工事中だった。
道将圳取水口に辿り着く前に、その歴史を簡述しておく。道将圳は「道爺圳」と「将軍圳」の合成名である。前者興建が1695年(康熙34年)、後者が1687年(康熙26年)、どちらも諸羅県首府が現在の嘉義市に定まる以前の開闢になる。これら二つの幹線・支線が合併した道将圳の総延長は230`に及ぶそうだから驚きである。日本時代の公圳(公共埤圳)認定(この時点で道将圳に改称)すら1907年(明治40年)なので非常に古い。水路管理母体は日本時代が嘉義郡水利組合、嘉南大圳水利組合、戦後、嘉南大圳農田水利協会、嘉南農田水利会と変遷している。(続く)
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