2019年07月06日

『水の古道』阿罩霧[土/川]−3

Kodou-2100.jpg Kodou-2101.jpg Kodou-2102.jpg
【写真説明】左・中央写真は霧峰市街地南端、国道6号線高架下に佇む「烏渓治水工事竣功記念碑」。日本時代の記念碑石碑様式に拠っている。記念碑正面「烏渓治水工事竣功記念碑」の表題下に「昭和六年十月起工/昭和十四年十月竣功/工費金六百六萬圓餘」のプレート(右写真)が嵌め込まれ、背面には「昭和十四年關係地方民建立」のプレートが嵌め込まれているが、それらプレートの年号の部分はすべて削り落されている。

阿罩霧圳を意識していたわけではない第一回目の霧峰市街地踏査では下水道マンホール迄は行き着いたが、阿罩霧圳御本尊に覜える機会無く、その後ネットで検索していたら、霧峰市街地で恐らくは最大の交通量を有すると思われる国道(高速道路)6号線(「水沙連高速公路」)霧峰インターの高架下に日本時代の水利事業関連碑が起立していることが判った。このダイヤグラムを参照戴きたい。早速次週、まずこの碑を目指した。筆者の手元の『台灣全覧』では三基の碑が並立しているような塩梅だが、実際は二基、省道3号線東側北岸路の中央分離帯取突き上に、茄苳樹の大木に守られるように並んでいるのは印象的な光景である。反面、以前はベンチと思しきコンクリート建造物を設え公園仕立てになっていたようだが、それら建造物は残骸となり散らばり、加えて草茫々の有様だった。

ウィキペディア中文版「烏渓」の「治理」項(日本語版もあるがこの項脱落)に二基の碑に関する説明があり、それらの由来が簡述されているが非常に判り易いので、訳出しておく([ ]内は筆者註):

1931年[昭和6年]、日本政府[台湾総督府]は烏渓九箇年治水計画を実施、606万円を投入、1939年[昭和14年/中華民国28年]、烏渓本流と支流大里渓の堤防設営38`、護岸工事2`を完成、完工後烏渓橋北岸に「烏渓治水工事竣功記念碑」を建立した。1959年、台湾中南部で甚大な被害を齎した八七水害が発生、水利局は「台湾省水利局機械工程隊」を編成、農復会[農業復興会か?]を通じアメリカの義援金にて工事機械・設備を購入[この部分の訳出怪し]、復旧工事を推進した。民間、工兵、工事隊以外に空軍も烏渓堤防の復旧工事に従事、[日本時代の] 烏渓治水工事竣工記念碑の横に、「空軍参加八七水災重建堤防工程竣工紀念・實惠及民」碑を建立した。

尚、検索を繰り返している内に、烏渓治水工事竣功式典には、林献堂の第二子林猶龍が地方名士代表として出席していることを知った。林献堂自身は当時東京に居り怪我(骨折)を負っていたので出席出来なかったのが実情である。林献堂と烏渓治水工事との関り合いは、国史館台湾文献館(通称台湾文献館)刊行の『臺灣文獻』第五十八巻第一期「烏渓治水事業之研究−以灌園先生日記為中心」に詳細がある。「灌園」とは林献堂の号である。台湾文献館の前身は台湾省通志館(1948年設立)で、初代館長が林献堂である。

筆者は先の投稿で霧峰林家を古い水路との関係でどう紹介しようかと悩んでいたのだが、これですっきりする。

ところで、烏渓治水工事と阿罩霧圳とはどういう関係にあるのか?と云うと、阿罩霧圳は烏渓から取水、阿罩霧地区、即ち霧峰地区の田畑を灌漑して来たのだが、その日本時代建設の第一水門が現存している。烏渓治水工事竣功記念碑と省道3号線を境に向き合い、その距離僅かに三百b!(続く)

posted by 玉山 at 00:00| 台北 ☀| Comment(0) | 『水の古道』阿罩霧[土/川] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。